次に金澤城の軍事的價値を考ふるに、その功果著大ならざるが如し。何となれば本城は、前田利家が多年の攻城野戰に從ひたる經驗に基づきて特に選定したる城地にあらずして、元來一向一揆の中樞たる金澤御坊の遺址たるに過ぎず。而してその位置、一面卯辰山に對し、一面野田寺町の臺地に向かふが故に、若し是等の地を敵の爲に占領せらるゝときは、假令その間に淺野川・犀川の二流ありて多少の防禦に便ずべしといへども、尚甚だしく不利に陷らざること能はず。况や本城の最弱點がその小立野臺地に接續する方面にあることは、古人の夙く考察せる所にして、三州奇談に『昔佐久間盛政尾山の城を攻めしに、城中よく防ぎ手強く戰ひしに、其頃瀬領村の者ども小立野より術計をなして手痛く責立し程に、城忽ち陷ぬ。』と記したるは、その事の眞僞如何に拘らず、この地點に於ける軍事的價値の缺乏を高唱せるものと見るべし。寛永八年城中殿閣の災に罹れる後、幕府は徳山五兵衞・桑山左衞門二人を使者とし、藩に就きて利常を慰問せしめしとき、二人は利常父子と共に城内を巡視したるが、後五兵衞人に語りて、『扨々此御城は、昔佐久間玄蕃頭暫(允)く在城の後、利家公築かせ給ふ御城なるが、あの茶磨山(卯辰山)の目の下にて、殊に小立野も城の爲に宜しからず。上口より五千、下口より五千程有ならば、餘り手間も入間敷、』といひたりと、三壺記に載するも亦同じ。然りといへども利家の治世は、恰も戰國群雄の割據時代より封建諸侯の領土固定時代に移るの期に當り、山寨に據りて防守を專一としたる戰術は既に廢れて、城郭の所在は寧ろ都市の中心として利便なるを喜び、一朝有事の際には國境の天嶮に進出して戰鬪するを期したりしが故に、利家も亦その家城(イヘシロ)の要害に就きては甚だしく重きを置かざりしなるべし。さればかの池田輝政が、姫路の要害は城郭にあらずして國境に存すとなし、城外に近く丘陵あるを憂へざりしといふが如く、利家も亦その遺書中に、『第一合戰の刻、敵の畔ぎり成とも踏出し尤に存候。他國より被押込候者、草の隱にても尤と存間敷候。』といひて、戰勝の秘訣を喝破したりしなり。