かくて利家の遺命を奉ずるその子孫は、進出を以て交戰の第一義となしたりといへども、亦萬已むを得ざる場合に在りては、固より領内に在りて防禦するの覺悟なかるべからず。是を以て利長は、慶長十年富山城に隱棲し、十四年その災に罹りし後また高岡に築きて之に徙り、以て金澤城の前衞に任ぜり。利常の時、寛永十五年幕府命じて一藩一城の制に從はしむ。是に於いて越中の高岡・魚津・今石動、能登の七尾、加賀の大聖寺、小松等の諸城皆廢せり。而も高岡は前侯の心力を傾倒して經營せし所なるが故に、石壘塹濠尚舊状を遺し、富山も亦災後の遺址を存したりしなり。十六年利常退老して再び小松城を興し、その子利次を富山に封じ、利治を大聖寺に居らしむ。利次乃ち舊城を修めて之に治し、利治は居舘を錦城山下に營めり。小松城は利常薨後といへども尚之を廢せず。故を以て金澤城の前衞は、南に大聖寺・小松あり、北に富山あり、而して高岡も亦緩急の際之に據るを得べかりしなり。若し夫金澤城直接の防備に至りては、城地が小立野の丘陵と相接續する所に深く百間堀を鑿ちて之を絶ち、白鳥堀・蝶螈堀をその左右に連ねて嚴重なる要害と爲し、大手方面にも亦壘塹と塹濠とを設けたり。獨甚右衞門坂方面に在りては、塹濠を掘鑿することなかりしといへども、尚懸崖峻坂を有するを以てその不利を償ふことを得べかりき。その他城を距ること數町にして内總構・外總構あり。水深水幅甚だ大ならざるも、亦幾分防禦の便宜に供するを得べく、街衢の要地には大身巨室の邸第を適當に布置したるを見る。 金澤の市坊が占めたる地域は、舊と五庄二郷に屬したりといはる。越登賀三州志に據れば、その五庄は若松庄・石浦庄・鞍月庄・小坂庄・金澤庄にして、二郷は豐田郷・富樫郷とし、その若松庄は今の天神町・材木町一帶をいひ、石浦庄は本多町より堤町・長町に至り、鞍月庄は安江町・五寳町附近とし、小坂庄は大手町より淺野川に及び、金澤庄は松原町・廣坂通・兼六園等之に屬し、豐田郷は大野用水より古道に至る間を包み、富樫郷は犀川の南、泉野に至る地とせり。是等に就きては稍異説ありといへども、固より適確にその當否を知るべからず。