金澤市街の濫觴を爲すものは元より金澤御坊にして、自ら近郷の文化的中心を爲したりしが、天正八年佐久間盛政の來り治するに及び、市坊の制漸く成れるものゝ如く、世に傳へて尾山八町と名づくる西町・堤町・南町・金屋町・松原町・材木町・近江町・安江町は、この頃より存在せりと言はる。是等市坊の稱呼は、今も尚存すといへども、その位置同じからざるものありて、西町は尾山城の正門前に在り、堤町は城内に在り、南町は城の南方に在り、金屋町は後に金谷の字を用ひて尾山御社附近をいひ、松原町は藩政時代に御門前町ともいひたるが、今は舊名に復したるものとし、材木町は紺屋坂邊に在り、而して近江町及び安江町は現今の所と異ならず。されど盛政のこゝに居りしこと僅かに二年有半に滿たざるを以て、この短日月に從來農里編戸なりしを改めて街衢を爲すに至れりとも思はれず。又金屋町の如きは、利家の入國以後、貨幣鑄造の事を掌りたる銀座の所在たりしより起れるものなるが故に、盛政の時固よりその名稱あり得べからず。當時材木町ありしといふも亦誤謬にして、この地は利家の時舘紺屋といふ者を居らしめしが故に紺屋町と稱したりしを、寛永十二年の災にその住民を今の上材木町の地に移らしめし時、轉居の資を助くるがため藩より材木を下附したりしを以て、初めてこの町名を生じたるなりといへり。况や永祿十年『金澤殿え奉寄進粷室之座之事』と首書せる文書には金澤後町山崎屋新四郎の名を署するも、所謂八町中に後町を見ず。又同年『金澤殿へ奉寄進粷室之事』と首書せるものには南町ひろおかやの名ありて、南町の永祿中既に存したることを知るべし。されば所謂尾山八町は後に金澤の本町たりしといへども、佐久間氏の時に起れりといふは、全く事實を誤れるものなり。