越登賀三州志の著者富田景周は、如何なる文献を典據としてこの説を爲しゝかを知らずといへども、恐らくは藤五物語より採りしにあらずやと思はる。 いつのころにかありけん、加賀介藤原の何がしが末なりける人ありけり。おやのまけ國なればとて、加賀の國石川の郡になんすみける。常にふるさとやゆかしかりけむ。その住ける里の名をば、やがて山科の里としも名づけ、さてその邊なるをふし見・住よし・をはらとよび、坂の名をさへ八瀬坂となむ付ける。さるはたゞつれ〲を慰むすさびなりけらし。家いとまづしかりければ、常にみ山に入つゝ薯蕷をなんほり來てなりはひとなしける。かゝればとて世の人いもほり藤五となん字しける。心ざまいときよくして、世の人に物施す事を好み、そのよろこべるをみて身のたしなみとはなしぬ。ほれるいもをも多くは里人にわかちあたへ、わづかにその殘れるをもておのが料となしてぞ世をへにける。爰に大和の國初瀬の里に、名をば生玉の方信といふ人ありけり。此人家富て多くの寳はもてりけれど、子なき事をなむ常に歎たりける。あるとき初瀬寺にこもりて、その事をうれへ申たりける。心ざしのせちなるを佛やあはれとおぼしたりけん、ほどなくひとりの女の子をなんまうけたりける。名をば和子としも呼て、かぎりなくよろこびたりしが、人となるにしたがひてみめかたちいとうつくしかりければ、見る人心をいためざるはなかりき。かくて方信は、此むすめにあはすべきをとこをえりもとめしかど、心にかなへる人なし。ある夜の夢に觀音の告給く、いましが子の夫たらんひとは、爰より遙に北の方なる加賀の國石川の郡にをれり。名をいもほり藤五とよぶとのたまふと見て覺ぬ。方信その尊きみさとしを喜び、やがで多くの寳どもとりあつめ、ずさどもにもたせ、おのが女をも具し、かの和子を伴ひてはるばるこの國にくだり、こゝかしことたづねさまよひつゝ、からうじて藤五が家にいたりぬ。方信もとよりおもへるにも似ぬいとあさましき小家にて、わづかに雨露をしのぐばかりのいほりになんありける。いとあやしみながらずさしていひいるゝに、藤五出あへり。方信その事のよしをかたれば、藤五打きゝていみじうおどろきつゝ、そはこと人にとそあらめ、いかでかとていなみたれど、もとよりまがふ、べくもあらぬ佛のみをしへなるよしをかたり、さま〲にいひさとし、さて彼和子をあたへ、多くの寳をも打おきてぞ歸りのぼりける。これよりかの和子、常に初瀬の觀音のみかたをふどころにしつゝ、つまの藤五につかふる事いとまめやかなりけり。藤五もとよりさる寳などほりつるさがにしあらねば、みながら近き里人にわかちあたへ、おのれは例のいもをほりてなん過しける。ある日初瀬なる方信が許よりこがね一ふくろおくれりしを、藤五例の如くよろこばず。やがて携へ出しが、折ふし田におりける雁のありけるに、かの金を袋ながらになげうちてけり。和子その事をきゝつゝ、いとあさましとおもひて歎くを、藤五見てうちわらひていへらく、こがねはしかばかりめづらかなるものにあらず。いつもおのが掘るいもづるの根にさはなるを、いで取來て見せ侍らん。さはなげき給ふなとて、つとめてとくより出行つゝ、ほり來れる事あだかもいらかの如くなんありける。そのすがねをすゝぎたりし澤の名をば、是より金洗澤となんいひける。かれこの澤に、こがねしろかねの雲母てふもの常にうかぶとなんいひつたふる。またある年のしはすの晦日の夜なりけん、ひんがしの方なる山より黄白黒の三つの小牛出來て、藤五が家の軒になんたゝずみける。そのあやしさいふばかりなし。つとめていとかしこみつゝもやり戸おしあくれば、さる物なくて金銀鐵の三つの兜なんありける。藤五打見つゝいよゝくしくおもひ、やがて和子とはからひつゝ、かの三つのかぶともて佛像を造らせ、さてその里にひとつの寺を營み、里の名なればとて伏見寺と名づけ、彼ほとけをば本尊とはなしける。かくてその小牛の出來れる山をば、三小牛の山と名づけぬ。その後藤五・和子いとむつまじう暮しけるが、時いたりて共にうつし世をなんさりける。かの里ちかきところにをさめ、藤五・和子が墓なればとて、世の人ふたご墳となんよべりけると、富樫の郷人かたりつたへけるとなん。 〔藤五物語〕