然らば芋掘藤五郎に關する傳説の實體は如何。吾人は遺憾ながら之を架空の事として葬り去らざる能はず。何となれば此種の口碑は、その所を異にするに從ひて内容外形に多少の差ありといへども、全國普遍的に行はれたるものにして、決して加賀にのみ特有なるものにあらざればなり。今之を證するが爲に、柳田國男氏が試みたる炭燒長者譚に關する研究の梗概を引用すべし。曰く、炭燒長者譚は、殆ど我が國の全部を通じて行はるゝものなり。即ち之を北にしては、津輕に炭燒藤太あり。この藤太は、初め貧賤の生活を爲したりしが、後に本領を安堵して武勳を樹て、又採金の業にも從ひ、京都なる近衞氏の女を娶りて妻とせり。又陸前栗原郡に藤太あり。彼は畠村なる金山澤にありて炭燒を業としたりしが、その子は即ち金賣吉次にして、又この地より黄金を採掘せり。藤太嘗て米を購はんが爲姊輪の町に至らんとせしに、途次金成村の池沼に鳬雁の群遊するを見、自ら携へたる砂金を擲ちて之を驚かせり、後その肝を金沼と稱す。又羽前山形に炭燒藤太あり。天仁二年中將姫清水觀音の靈告を得、來りてその妻となる。姫嘗て米を購はんが爲に黄金一枚を藤太に與へしに、藤太は途にして之を池中の鴻に擲てり。姫之を聞きて愛惜せしに藤太は、かの光輝燦爛たるものは我が山中に甚だ多く、毫も珍とするに足らずといへり。今南村山郡寳澤村に石寳山藤太寺ありて彼を祀る。又岩代國信夫郡石那坂に吉次宮ありて、その前に藤太の子吉次が黄金を洗ひたる小池あり。この吉次は出雲の人を娶りて妻とせりと言はる。その他、遠江國濱松郊外なる鴨江の觀音堂は、大寳二年六月芋掘長者の建つる所にして、其の妻は奈良の人なりしとせられ、安藝國賀茂郡に至りては盆唄に變形し、妻は大納言某の女玉屋姫にして、夫は豐後臼杵の人炭燒小五郎といひしが、彼はその妻の與へたる黄金を鴛鴦に擲ちたりとせられ、筑前朝倉郡の俚謠は、妻を玉代、夫を炭燒又吾とし、肥後菊池郡の米原長者譚は、長者鄙賤の時に孫三郎といひしが、長谷觀音の靈告によりて下れる都の女を妻としたりとす。かくの如く各地多少の差違あれども、炭燒と採鑛とは共に山地に關係あるものにして、此等の業に從ふ者が世事に迂遠なるによりこの傳説を生じたるものゝ如く、且つ冶工を鑄物師(イモジ)といふが故に、炭燒長者は一轉して芋掘長者となり、特に金山澤・金沼・金澤等と稱する土地に在りて、巧に説明傳説として利用せらるゝに至りしなりといへり。是に因りて觀れば、加賀の芋掘藤五郎も、亦これと同一系統の口碑が僅かに地方色を帶びたるものたるべきは、更めて之を言ふの必要なかるべし。