然らば文献に於ける金澤の地名の初見は如何。越登賀三州志には、文治三年加賀の士井上左衞門の從臣に金澤源次あることを掲ぐれども、こは盛長私記に基づきたるものにして、盛長私記の僞書たる定説ある上は之を引證すべき限りにあらず。同書にまた、天正某年卯月朔日附にて本願寺の老臣下間侍從頼純より堀五兵衞に與へたる感状に、『今度於於金澤表首一討取候段、寔不始于今高名無比類儀候。』とあるを引けども、この文書は、元と於金津とありしものにして、金津は越前の地なり。然るに影寫の際その草體より金澤と誤りたるものなるが故に、是亦引證とすべきにあらず。同書は又天正五年上杉謙信の加賀に入りし時、陣僧萬里和尚と共に茶臼山に登りしに、萬里は金澤城を望みて『君祈萬歳白山社。臣守四方金澤城。』の一聯を作れりとすれども、その出典全く明らかならず。こゝにいふ萬里にして、若し梅花無盡藏を著したる萬里周九なりとせば、彼の寂年を詳かにせずといへども、文明十五年に七十歳なりしを以て、天正中までは存命し得べからざるのみならず、彼は關東より越後・越中に來りしことあれども、それより飛騨に赴きたるが故に、加賀に入りしことは決してこれなかりしなるべく、且つ梅花無盡藏を檢するも上記の句を發見する能はず。萬里の作れりといふ聯句に就いては、有澤武貞の著せる金澤正極圖譜に、石川郡御供田村の農土屋又三郎義休が村巷の口碑を武貞に語りたろことを載せたる中に、この事をも記したるが故に、初めて訛謬を傳へたるものゝ義休たるべきは、略之を察するに足るべし。又箕浦五郎左衞門の著せる秘笈雜書には、『或説に謙信松任歸りに、此山は臥たる龍に似たり、富貴たるべしと宣と也。臥龍山と云山なり。妙心寺開山和尚の詩に、臣四方圍金澤城。君萬歳祈白山社。』と記したれども、妙心寺開山は關山慧玄にして吉野朝の人なり。この時何の金澤城あらんや、亦杜撰極れりといふべし。之を要するに、越登賀三州志に載する金澤の地名に關する記事は、一も信憑するに足るものを見ること能はず。