思ふに金澤の地名は、その起ること古きに在るべしといへども、文明の頃は尚その地に注目を惹くに足るべき部落なかりしものゝ如し。何となれば廻國雜記を見るに、道興准后がこの國を旅行したる際、野々市にても、津幡にても和歌を詠じたるに拘らず、金澤に就きては一も之を遺さゞりしを以てなり。而してその確實に金澤の名稱を發見し得るは、實に天文日記十五年十月廿九日の條に加州金澤坊舍の語あるに始り、永祿十年の麹座寄進状に金澤後町山崎屋新四郎とあるもの之に次ぎ、天正四年八月廿一日附一向一揆頭目の連署状には、『金澤於御堂各被致頂戴』といひ、十一年五月秀吉の消息に『金澤と申城に立馬』といひ、十三年又秀吉の消息に『けふはかなざわにこしさら』などの語を見るに至れり。されば本願寺實如のこの地に坊舍を建てたる後、漸くその名の著るゝに至りしが如く考へらる。或は曰く、天文日記六年四月廿四日の條に、『加州金澤庄より勸物千疋來、請取唯今以周防到候(出カ)。』とあるを金澤の名の初見とすと。こは天文日記原本に金津庄とあるを、他の寫本に誤つて金澤庄の草體に書きたるに依る。從ふべからず。 尾山城が金澤城と公稱せらるゝに至りたるを、文祿修築の際にありとするは三壺記及び越登賀三州志のいふ所なるも、その必ずしも然らざるは、前に掲げたる天正中秀吉の消息に、夙く『金澤と申城』とあるに徴して之を知るべく、且つ文祿修築の後に在りても、同三年九月七日及び十月八日附の利家の印書に、尚尾山町年寄中又は尾山町中と記せられ、慶長五年八月廿四日附家康の消息にも、『先々小山(尾)まで御歸陣之由尤に候。』とあれば、城郭としても都市としても、尾山とも金澤とも混用せられたるなり。但し慶長十年十月二十八日の制札には金澤町とし、その後の公用書類には全く尾山の名を見ざるを以て、利常襲封の頃よりは金澤町又は金澤城とのみ稱するに至りしものゝ如し。