前田利家の入城より利長を經て利常の退老に至る間五十七年は、吾人の藩政創始期と名づけたるものなるが、當時の世態風俗の如何なりしかに關しては、多くの資料を得る能はざるを以て、僅かにその一斑を叙するに止めざるべからず。 戰國の餘習を受けたるこの時期に於いて、角技が士庶の間に喜ばれしことは勿論なるべしといへども、その名手として著れたるものは、唯利長の臣松村總次郎ありしを見るのみ。總次郎は嘗て北野千本の勸進相撲に臨み、七日間の角觝三十三番にして一たびも敗を取ることなかりき。是より世人呼びて順禮といり。慶長九年七月十七日結城秀康がその父徳川家康を伏見邸に招きしとき、強力の士を集め相搏たしめて餘興とせしに、家康以下一門皆座に在り、從士家中の輩庭上に列して之を觀る者堵を爲せり。時に越前の嵐追手・加賀の順禮東西の大關たりしが、前角力十四番の取組終りし後、二人は土豚に上りて龍拏虎擲眞に壯觀を極めたりき。而してその勝敗の決は、惜しいかな嵐追手の名を爲さしむるに止りしといへども、順禮も亦一世の豪として喧傳せられたるは、竹齋物語に北野神社境内の光景を叙して、『又有かたを見てあれば、あらしおひて・じゆんれいや、こぎつね・やけなべ・ひんせうが、すまふをこそははじめけれ。』と言へるを以て見るべく、こは實に嵐追手・順禮の語を力士の代表的名稱として用ひたるなり。或は曰く、加賀藩に在りては順禮が他藩のものに敗れたるを耻ぢ、その後決して相撲の徒を祿することなく、別に膂力あるものを集めて手木組の一隊を編成せしめたりと。されど利常の時尚相撲の者ありたるが故に、前説は非なるべし。