幸若は室町時代に起りたるものなるが、この頃に至りても尚流行したるを見る。利家もまたその舞大夫を扶持したりしが如く、羽咋郡押水庄上田村に舞々三郎太夫ありて、承應中利常は之に居屋敷三百五十歩及び諸役免除の判物を與へたりしが、その書中に天正年中先判の旨に任せて宛行ふといへば、三郎太夫の祖先が利家の時よりこの地に在りて藩の保護を受けたることを知り得べし。その子孫は歸農せしといへども尚この特典を世襲したることは、寳暦十四年の調書に羽咋郡上田村舞々三郎太夫御印引高一石七斗五升といへるに依りて明らかなり。 於能州羽喰郡押水庄上田村、居屋敷三百五十歩之處、任天正年中先判之旨宛行畢。諸役等無相違令免除者也。仍如件。 承應貳年三月廿二日印(利常) 舞々三郎太夫 〔北徴遺文〕 次いで利長が慶長十年老を富山城に養ひし時の士帳に、舞々武右衞門といふ者の名ありて、これ亦幸若の舞大夫なりしなるべし。利常は殊にこの舞曲を賞翫せしが、寛永中江戸辰口の邸にて、井上清兵付が有澤太郎左衞門を殺害したる後、一夜幸若大夫を召して演奏せしめしことあり。時に世子光高、太郎左衞門の弟孫作は當直なるかと問ひ、その殿中に在ることを知りて、八島の曲は孫作をして聞かしむるに忍びずといひ、乃ち彼を召して盃を賜ひ落涙數行なりしといへり。蓋し八島の曲には、繼信の戰死したる後弟忠信がその遺骸を求むることを作りたればなり。この插話は、武家耳底記によるときは、或年重陽の日江戸邸にて井口清兵衞が有澤孫作を傷つけたりしに、孫作は之に因りて命を失ひ、清兵衞は切腹を命ぜられたりき。既にして數日の後利常幸若を召して夜討曾我を舞はしめしが、『十郎が首を一目見て、鬼のやうなる五郎も、』といふ一節に至りて、『おけ〱』と命ぜられしを以て直に舞納めたりき。利常須臾ありて曰く、次郎吉も次室に在りて聞きたるべく、必ず不快を感ぜしならんと。乃ち之を召して酒を賜ひたり。次郎吉は孫作の弟なりと。その所傳に差違ありといへども、利常の時幸若の行はれたることを證するに至りては、即ち一なり。