前記の外尚著名なるものに觀音院の能ありき。抑この觀音院の觀音像は、もと石浦山王社の本地佛なりしを、天正十年愛宕明王院の僧祐慶といふ者借り行きて、小立野出羽町に奉祀しけるなり。諸書に尻谷坂の上に在りしと記すもの亦この地を指す。慶長六年利長命じて愛宕明王院を卯辰山に轉ぜしめし時、かの觀音も亦共に移され、寺地を愛宕山と呼びたりしが、十一年石浦山王社の氏子たる石浦等七ヶ村の農民、藩に訴へて觀音像を回復せしかば、明王院は新像を造りて之に代へたりき。後祐慶の退隱するや今の觀音山に菟裘を營み、明王院の觀音像を將來して觀音院といへり。既にして前田利常の夫人天徳院之を信仰し、元和三年新たに堂宇を築き、利常も亦爲に客殿・庫裏を寄進せしが、十月に至りて悉く成りしを以て、十一月三日利常の次子千勝之に詣で、三日・四日兩日に亙りて神事能を興行せしめたりき。然るに十一月が好季節にあらざるを以て、翌年以降祭禮を四月朔日・二日に定むといふ。以上卯辰觀音院由來書等に據りて之を記す。三州奇談に載する所之と趣を異にするは、著者堀樗庵の過聞なるべし。觀音院の能は爾後藩末に至るまで繼續し、その興行は藩の町奉行に命じて爲さしむる所なりといへども、一切の經費は城下の本町をして負擔せしめたりき。 如例年朔日・二日、長谷觀音に而爲祭禮能被仰付候條、如跡々町役者共罷出候樣に可被申渡候。恐々謹言。 酉三月十二日(明暦三年)横山三左衞門在判 長九郎左衞門在判(其他略) 脇田九兵衞(金澤町奉行)殿 富永勘解由殿 〔卯辰觀音院由來書〕 ○ 人民政事は諸侯の寳、土地開け上下和し、誠に喜びを加ふる都會なり。殊に卯辰山觀音院は、本城の東の岡に對し、靈驗といひ致景といひ、金城の貴賤日夜參詣し、昇平を樂しむ所なり。時は國初て第三主、則微妙院(利常)殿の御二男千勝(利次)君と申すは、御朱殿天徳院殿の御腹にて、上下敬ひ殊に重かりし。時に元和三年十一月朔日、此千勝君卯辰山觀音院の境内山王權現ありしに御宮參りあり。本堂觀音の堂の縁に御上りなされ御休みなされしに、其頃御歳四歳(當歳ノ誤)とかや。後富山の侯と成給ふ是なり。其砌町方よりも多く參詣もありしに、觀音堂にて見やり給ふに殊に御機嫌よく、御伽に御傍へ出で謠などうたひし子どもゝありしとかや。御悦にて御歸舘ありしを觀音院を初め町中にも殊の外有難きことに覺えて、則翌二日・三日兩日に、此祝として町人等より集り囃子を興行せしに、御城よりも此儀御滿足とて、餠米二拾俵・小豆三俵下さる。是觀音院能の格の初なり。翌年より四月朔日・二日と定り、觀音御能と稱し、諸事町役となりて國中へ見物仰付られ、本町棧敷渡りて、兩家の能大夫を定め給ふ。波吉・諸橋是なり。其外町中よりも是に堪能の者共御扶持蒙りて、觀音御役者と稱ふ。されば此能國家の守り專一なるにや、故障ありて延る時は必ず國君凶事あり。不例はひとつ〲云ふべからず。能は兩日とも翁三番叟なり。 〔三州奇談〕