男子の能樂を喜ぶに對して、婦人は舞踊・歌舞伎を愛好せり。蓋し舞踊若しくは歌舞伎を業とするものゝ他國より入り來るを禁じたることは、慶長十六年七月及び同十七年十月の法令に、『おどり並辻すまふ是又停止候。自然他國よりかぶき・おどりなど相越候共、一切宿かし候儀可爲曲言車。』との條あるを以てこれを知るべし。然るに城内に在りては、是より先慶長六年利常夫人が三歳にして入輿せる後、之を慰むるがため素人踊などの行はるゝありしかば、遂には一般に法令弛廢の因を爲すに至れり。左に掲ぐる利長の長好連に與へたる書信は、好連が利長及び利常夫人を招きて舞踊を觀覽に供したるを謝したるものにして、姫君と書きたるは利常夫人が將軍徳川秀忠の女たりしを以てなり。 尚々おどり一だんしんびやうにそろい申候。我々までまんぞく候。 今日のおどり、めをおどろかし申候。きらびやかなる事申もおろかにて候。ひめぎみ一だん御まんぞくのよし候間、我等のしうちやくこれにすぎず候、さし。 八十日 十左(長十左衞門好連)はひ(利長) 〔長家文書〕