慶長十九年利家の後室芳春院江戸を發して金澤に歸り、城内二ノ丸に住せしに、利常はその母を慰めんが爲に、屢音曲諸藝に堪能なる檢校を招きて技を演ぜしめき。是より後元和三年七月芳春院の逝去に至る間、利長の後室玉泉院は西ノ丸に在り、今侯利常の夫人は本丸に在りしかば、侍女從卿最も多く、互に妍を競ひ嬌を爭ひ、遂に『つゝじ椿は山の端を照らす、城の女中衆は極樂橋を照らす。』との俚謠をすら生ずるに至り、城下婦女子の風俗も亦その影響を受けて頗る奢侈に赴きしものゝ如し。極樂橋は城内二ノ丸より本丸に入る所に在りて、金澤御坊がこの地に在りし時の通路なりしより名を得たるものなりといふ。 當時犀川及び淺野川の河原に踊・操等を興行するもの漸く起りしが、彼等は利常夫人及び公子の觀覽に供せんが爲、時々城内に招かれてその技を演じ、夥多の金品を與へられたりき。こゝに至りて慶長の禁令は全く行はれず、京阪の藝人等城下に入り來るもの益多きを加ふるに至れり。就中鬼川の邊に女歌舞伎の座ありて、大夫をお吉・鹽竈・十五夜といひしが、世人その容姿の艷麗なるを稱揚して楊貴妃・李夫人・勾當内侍といへり。この外座中の婦女凡べて三十餘人、皆兵庫髷に前髮を立て、朱鞘又は梅華皮(カイラギ)鞘の兩刀に金銀透しの鍔を用ひ、眞紅の下緒を裝ひ、印籠・巾着を帶び、若衆の風態に扮裝して、舞踊と狂言とを交へ演ぜしに、上下の男女之を觀るもの頗る多く、或は短册を贈り、或は菓子・瓶子を與へて之を賞せり。札錢は灰吹の細銀(コマギン)三分宛とし、芝居は未の刻に至りて終り、申の刻を過ぐる時は士人各駕を發してその邸に迎へ、以て一夕の歡樂を盡くせり。その他字右衞門・雅樂之助の淨瑠璃操、喜太夫・孫太夫の能操、藤村藏人の踊子の座、油屋與次郎の蜘舞の座等、皆一時に聲名ありき。