是等操・歌舞伎の座に在りては、歩士(カチ)及び相撲等の者に限り札錢を支拂はずして之を觀るの特權を有せしかば、家中陪隸の士亦彼等に擬して恣に入場するものありき。因りて藩は芝居の鼠木戸に歩士を置きて看視せしめしも、その制止を肯んぜずして亂暴し、時に拔刀して死傷を生ぜしむることすらありしかば、諸興行が啻り人民の財力を消耗せしむるのみならず、又治安を害するを以て、遂に之を禁止するに至れり。是より先金澤に於ける芝居座は、河原町の茶屋作右衞門といふ者之を設備して興行者に貸與し、初日を法樂と稱して附近の住民に無料觀覽せしめ、第二日の收入は擧げて作右衞門の利得とするの習慣ありしが、この禁令あるに及び作右衞門は全くその特權を失ひたりき。然るにその後數年を經て、また犀川河原に操芝居を興行するものありしかば、吏作右衞門を捕へて鞫問せしに、作右衞門は藩の許可を得たるに因ると辯解せしも、實は虚僞を陳述せしものなりしを以て、遂に泉野に於いて火刑に處せられ、且つその興行を停止せしめられき。但し是等の事が何れの年に係るかは今之を詳かにする能はず。次いで寛永六年藩侯の世子光高任官の慶事あり、翌七年には利長第十七回忌の法要ありしかば、興行師等この機に乘じて藩の許可を請ひ、薩摩節の磯之助・投節の金太夫等を招きて犀川河原に興行したりしも、八年四月城下火災後の市區改正により、この地は屋敷に變じたるを以て、又之を廢せざるべからざるに至れり。 元和元年伊勢踊大に天下に流行せり。金澤に在りては少年等、中町組・新町組等の團體を組織し、盛裝して躍りながら神明宮より城中に至り、藩侯の觀覽に供し、歸路士大夫の邸を巡歴したりき。後士人も亦之に倣ふものあるに至りしかば、能登・越中の庶民群至して觀覽せり。これ等の中、城内より邌り出だせる一隊は扮裝最も華美を極め、先頭には白銀の棒と黄金の團扇を持ち、水色帷子を着て覆面し、『治る御代に遊べや遊べ、風がなければ波もなし、天下泰平國土安穩、御馬をやらうか御輿をやろか、御局もいやよ御輿もいやよ、我が思ふ人にひかれて、天下泰平國土安穩。』と拍子を揃へて謠ひながら神明宮に向かふものあり。次に米搗躍ありて、金の搗臼を車にて運ばせ、杵を擔ひたる女子三十人をして之に隨はしむ。女子は皆紫の絹にて髷を包み、伊達帷子を着して覆面し、赤地緞子を幅五分宛に裁ちたるを前垂とし、杵の頭に穴を穿ち、之を振るときは銀箔の細片を散亂せしむる仕掛とし、『めでた〱の若松や枝も榮ゆる葉も繁る』と謠ひ、次には小幡宮内の唐人踊あり、村井飛騨の鐘引躍あり。而して人持組の士皆之に隨ひ、經費は悉く藩より支出せられき。夏に切り十月に至って止む。三壺聞書に之を元和七年に係くるものは誤なるべし。