その後また馬鹿踊といふものありて頗る民間に行はれき。元和六年將軍秀忠の女和子、立ちて後水尾天皇の女御となりしに、利常はその臣前田直之を京師に、奧村榮政を江戸に派して賀亂を上らしめ、城中に於いても上下に酒を賜ひ、市民亦悉く宴を張り、馬鹿踊を躍りて夜を徹するものすらありき。その唱歌に、『爰は三篠か釜の座か、一夜泊りてたゝらふまう、佐渡と越後はすぢむかひ。』などゝいへり。 世態の漸ぐ寛縱に流れたる結果は、藩侯に近侍する兒小姓に踊を練習せしむるに至れり。即ち寛永十七年利常が將軍家光をその江戸邸に招請せしときにも兒小姓をして舞踊せしめ、その後家光の上野南光坊に臨みし時、酒井讃岐守邸に赴きしときに於いても、並びに老中の命によりて利常はその兒小姓踊を台覽に供し、金澤に於いては利常の在國して年賀の禮を受け終りし時、能樂を奏せしむると共に兒小姓踊を演ぜしめ、家中の士を初とし神職僧侶に至るまで皆之を觀覽するを許したることあり。