遊女の初めて記録に見えたるは元和六年に在り。この時淺野川の下流より新川を掘鑿し、石川郡宮腰・大野・粟ヶ崎等より直に物貨を城下に運漕し得べからしめ、因りて之を堀川といひ、その終點を揚場と稱したりしが、附近忽ち殷盛の區となりて妓樓軒を列ねたりと傳へらる。是より後寛永中に入りては、城下の所々に遊女あり。好色の輩爲に金銀を濫費し、遊興の資を得んが爲に天狗頼母子の法を案出したりき。是に於いて一攫千金の利を得るものあり。又は恒産を破りて盜賊に變ずるものあり。無頼の青年等亦力士藤繩といふ者を頭首に推し、倉庫を破壞し金品を奪掠せしが、事遂に發覺して刑せられき。藩乃ち此くの如く風紀の紊亂せし理由を、賣色の徒あるに因るとなし、町奉行に命じて之を禁制せしめしに、又犀川の惣構に風呂屋を營み、湯女を抱へ置きて淫を鬻がしむるものを生じ、藩士中村刑部に屬する足輕の寡婦にして痘痕媽(イモカ)と呼ばれたる者も、亦その娘きちの外多數の婦人を賣女として嫖客に接せしめしかば、吏之を知りて風呂屋及び痘痕媽の一族を泉野に於いて磔刑に處したりき。是より後寛永五年八月廿三日附の金澤町中定書には、『一、於町中傾城並出合屋堅く御停止之事。一、當町風呂屋遣女之事、妄之作法有之に付ては、宿主可爲曲言事。』と載せ、十四年三月廿五日附の定書にも亦之を繰返して嚴に取締る所ありしに、その弊暫く著しからざるに至れり。 士風の頽廢は、利長の治世の末期より初りたるが如く、歌舞伎者と稱する侠客めきたる者を出し、その弊害決して少からざりき。利常の時に及んで、金澤及び高岡にとの徒の横行するもの多かりしかば、慶長十五年六十三人を捕へて斬に處し、首魁小將組の士長田牛之助は神尾之直の家に於いて、牛之助の弟乙兵衞は水原左衞門の家に於いて各屠腹を命ぜられき。浪人石原鐵次も亦その徒なりしが、一身の危急なるを知り、上國に脱走せんとして大聖寺の關門に至りしに、近藤大利の家士追及して之を斬れり。同十六年六月の法令に、辻斬・立札・落し文・辻立・辻うたひ・辻尺八・辻相撲・頬冠り等を禁制したるは、亦皆是等の歌舞伎者若しくはその惡風に感染したるものゝ所爲なりしなるべし。此の如く嚴に制裁する所ありしに拘らず、士人中には歌舞伎者に祿を與へて寛濶を誇りたるものありたりと見え、十七年三月歌舞伎者を召抱へたる者に、知行萬石以上なれば銀子三十枚、以下遞減して知行二千石乃至千石なれば銀子二枚の過怠金を徴するの令を布き、又大髭を蓄ふる能はざらしめ、刀は欛・鞘とも長三尺七寸、脇指は同じく二尺五寸を超ゆべからずと定めたりき。然れども異樣なる扮裝を爲して他の注目を惹くことは、獨歌舞伎者のみにあらずして、藩侯自身も亦時代の好尚に隨ひ、知らず識らず之を奬勵するの弊に陷りし形跡なしとせず。即ち寛永八年八月利常は、その小姓に年長の者多くして行裝の華美ならざるを憂へ、特に大橋市右衞門に命じて、嫡子にあらざる子弟の長身肥軀なるもの三十餘人を選拔せしめ、十二月その江戸に赴くに當り、皆薄鼠又は空色の綿衣を著、梅華皮(カイラギ)の鞘に金鍔を裝ひ、その他好みの大刀を帶び、二尺一寸乃至三寸の大脇刺を添へ、腰に小なる馬柄杓と瓢箪とを下げ、繩綯ひの手拭を挾み、乘輿に先だちて進ましめしことあるが如きは是なり。