此くの如く一面には士人が遊惰放縱に陷り、若しくは扮裝の漸く素撲質實ならざる傾向を呈するに至りたりといへども、流石に戰國の世を去ること未だ遠からざりしを以て、殺伐の氣尚甚だしく消耗せず、青年客氣の士動もすれば喧嘩口論の極一身を犧牲に供せしものなきにあらず。寛永六年四月將軍家光が加賀藩の本郷邸に臨み、上下多忙を極めし際、兒小姓玉井主水・藤田長吉の二人は書院の廊下に於いて相鬪ひ、共に傷つけられて死せしが、その原因の何たりしかを知ること能はざりき。翌七年六月前田直之は晩餐を終へたる後、チヤンフ彦右衞門・高畠又八・石黒權左衞門・神戸嘉助・幸島藤右衞門・幸島次右衞門等を率ゐ、犀川中村の淵に至りて遊泳し、歸路御荷川の橋を渡らんとせり。時に村瀬四郎左衞門・坂部市郎右衞門の二人之に對して來り過ぎんとせしが、市郎右衞門・直之の刀室相觸れしかば、直之扇を以て市郎右衞門の肩を打ちしに、市郎右衞門は直に刀を拔きて戰を挑み、四郎左衞門も亦力を協せたりき。然るに直之に隨ふ者多勢を憑みて之に應じ、遂に二人を斬りて遁れしかば、四郎左衞門の父九右衞門之を聞きて加害者を追ひ、奮鬪して直之側の四人を斬り己も亦命を殞せり。市郎右衞門の父次郎兵衞は家に在りしが、報を得ること遲かりしを以て、鑓を携へて急駛せしも及ばず。依りて妙慶寺に入りて薙髮し、後去りて京畿に赴き、而して四郎左衞門の弟忠藏・亂助の二人は、尚年少なりしを以て母と共に江戸に放浪せり。直之は前田利政の子にして、通稱を肥後といひ、後に三左衞門と改めし人なり。同九年三月利常の兒小姓等、又江戸に於いて椿事を釀さんとせり。常時齡三十歳に及びても、尚前髮を蓄へて兒小姓と稱せらるゝものありしが、柳田長三郎も亦その一人なりき。長三郎一日同僚青木主膳に謂つて曰く、吉田左門・茨木小隼太の二人は親交あるものなるが、卿と大窪伊織とに對して異心を挾むと稱せらるゝ故に、卿は宜しく戒心する所なかるべからずと。而して他日長三郎また左門・小隼太二人に告げて、主膳・伊織が白眼を以て彼等を視ることを言へり。是に於いて兩者互に相疑ひ、同時に長三郎を以て皆己の黨なりと信ぜり。是より先犀川に若衆歌舞伎の座ありて、その囃物の詞に『はんま千鳥の友呼ぶ聲は、ちりやちり〲。』と言ひしかば、老若多く之を摸倣したりしが、一日かの兒小姓等を見しとき、その中にちりやちり〲と口吟する者ありしに忽ち爭論を生じ、遂に日を期して決鬪せんことを約せり。然るにその事未だ行はれざるに目付等之を偵知せしを以て、五人を擧げて藩に歸らしめ、後長三郎は極樂寺に於いて切腹を命ぜられ、長三郎の男兒二人亦連座し、他の四人は祿を褫はれたりき。是を以て之を觀るに、利常の代に至るまでは、放縱なるも柔弱ならず、無骨の風漸く廢れたりといへども尚豪奢に達せざること遠く、而して僅かに服飾の善美を欲したるに止り、飮食・住居は頗る簡易粗放なりしが如し。 微妙公(利常)・陽廣(光高)公御代の事は、舊記もすくなく委敷は知りがたしといへども、粗語り傳る事共を以て考るに、御家中一体ひたすら武の強をこのみ、少口論の上はや刄傷におよぶ。或は喧嘩兩成敗の御法に泥む者は臆病なりとそしり、若侍中刀・脇刺を買求てはむざと手打をして腕をためし、無故乞食抔を切殺して刄を試るなど、人道におゐては不可然事どもなれども、いさゝか柔弱成事なくして、華美のさまはなく、質朴の風俗と見えたり。小身の侍中、家居大方土間に莚を敷、其内寢間には竹簀の子をはり、藁にて組たるねこだを乘せて、其上に縁取り呉蓙を敷て暮したる由。又是に准じ高知の人も、家居等結構はなきと見えたり。萬事質朴の風俗と聞えたり。夫に付て其頃の昔咄、聞傳るにまかせ書附侍る。御知行貳千石阿部何某朝とく起て、ひとへ帶に大脇刺一腰にて、楊枝をつかひながら供もつれず門外へ出、近所木梨何某知行五百石の家へ來り臺所口へ入り何某は居るかと訪ふ。時に木梨の内室、茶の間いろりに火を燒ながら、某殿は唯今留守なり、どなたかしらず御入なされといふ。しからば阿部何某なか暫いるべしとて、いろりの端に座し茶を呑、内室と暫く物語して歸るよし聞傳ふ。此事木梨の家は代々長壽にして、今の助三郎曾祖父の代にして、助三郎祖母の語り傳なるよし、大方慥成物語なり。 〔高澤録〕