藩政の初に於いては、士民住地を離れて遠く遊杖を名勝の地に曳くが如きは殆どこれなかりしも、その病痾を醫し若しくは多年の勞苦を忘るゝの意味に於いて湯治を行ひしことは間々行はれ、利家の如きも亦遠く上州草津温泉に浴せしことあり。而して藩内に在りては、加賀の山中温泉・山代温泉、能登の涌浦温泉最も著れたりき。就中山中は、文明五年蓮如がこゝに浴したるを初見とし、前田氏の時に及びては夙に大に殷盛を加へたるが如く、慶長七年以降その湯税を藩の收人の一に充てたることは、多數の文書によりて之を見るを得べく、又梵舜日記によりて、洛陽蒲柳の婦女すら尚雲山百里を越えてこゝに澡浴を試みたるを知るべし。されば國人にとりては、山中温泉が固より一の遊樂地たりしことを疑はざるなり。 慶長七年江沼郡山中湯錢請取艮子事(銀) 合七百目者 右請取所如件。 慶長七年十二月廿日はひ(利長)在判 山中百せう中 〔江沼郡醫王寺文書〕 ○ 慶長八年山中湯錢艮子請取事 合五百目者 右請取所如件。 慶長八年五月廿二日はひ在判 右京 遠江 〔江沼郡醫王寺文書〕 ○ 慶長八年山中湯錢ノ艮子請取事 合拾六枚拾六匁者 右請取所如件。 慶長八年十二月十四日もひ在判 右京 遠江 〔江沼郡醫王寺文書〕 ○ 當村湯錢御運上金子貳枚宛、毎年此者として相調可指上候條、右之御代官被付候儀可被成御用捨旨就致言上、百姓等被任申分候。然者年々ニ御運上無殘可致進納候。若於無沙汰者可爲曲事之旨被仰出候條、可成其意者也。 元和元年八月十八日横山山城守(長知)在判 本多安房守(政重)在判 市右衞門四右衞門清介 理右衞門次右衞門又 兵 衞 清 兵 衞忠 兵 衞藤右衞門 作右衞門 〔江沼郡醫王寺文書〕 ○ 九月三日(慶長八年)天晴。二位卿(吉田兼見)女房衆加州山中之湯に御越。拙僧(神龍院梵舜)も可有同道之由候間俄罷越。 八日天晴。金津(越前)宿より加州之内山中湯宿へ付ぬ。其日より二七日の湯治也。 十二日天晴。加州山中湯宿。藥師硫黄(醫王)寺へ參詣。 廿二日天晴。二七日之湯治日數相添に依て、越前の北庄まで上り也。一日滯留。 〔梵舜日記〕