山代温泉も亦山中温泉と同じく、その發見利用せられたることは甚だ古かるべしといへども、文献に見えたるは今枝家譜に『正保四年二月直恒(今枝)于江府病痾之由達于賀州。時微妙(利常)院殿爲保養浴江沼郡山代温湯、直治(今枝、後近義)往彼地、請暇至東武。』とあるを初とし、菅家見聞集には利常『慶安元年十月山代御入湯。』とし、山崎小右衞門筆記には『慶安二年二月廿八日中納言(利常)樣山代御湯治被成。』といへり。又享保録に據れば、山代湯は利常及び大聖寺侯利治の之に澡浴するに及びて、族舘及び湯所の圍・揚り屋等の作事を施し、堀口宗也に湯元惣支配を命ぜられき。然るに或年越前大野侯松平直富こゝに來り、圍内の湛泉清澄なるを見て之に浴せんと欲せしが、宗也はこの圍内が利常の浴する所たるを以て、その鍵は大聖寺藩の保管する所なりと僞り、遂に拒みて入るを許さゞりき。利常之を聞き、後宗也を小松城の葭島亭に召して酒を賜ひ、その子彌三郎に秩百石を與へて公事場牢鍵番の職を掌らしめ、金澤紺屋坂に住せしむ。利常の意、蓋し宗也がその寄託を重んじ、他藩主の威武に屈せざるを賞せしなりとのことを載せたり。此等の談、皆當時山代温泉に痾を養ふものゝ多かりしを證するものといふべし。 能登の涌浦温泉は、陸地を離るゝこと六十間の海中より湧出せり。畠山氏の此の國に治せし時、夙く之を保護せんが爲石垣を築きて圍み、湯船を以て運送せしめ、以て治療の功を助けたりとの口碑を有す。前田氏の時に及びて、その名益著れたるが如く、利長の腫物を憂ふるに際し又この湯を運びて澡浴せりといふ。しかも前來の石垣は風波の爲に漸く破壞せられしを以て、寛永十八年七尾町奉行石黒某之を修築して徑十間の湯の島を作らしめ、その汲取によりて生ずる收入を七尾町の收入たらしむると共に、小物成として湯役を納めしむることゝなれり。蓋し涌浦は小村にして泉源保存の資に堪へず、是を以てその權利自ら七尾町に移るに至りしなるべし。延寳二年加賀藩命じて涌浦を和倉と改めしむ。これ涌浦の文字上下相類して、間々顚倒するものありしによるといふ。