光高は寛永十六年十一月を以て江戸より歸れり。こは光高が封を襲ぎし後初度の入部なりしが、幾くもなく稻葉左近を屠腹せしめて、その臣僚を操縱する手腕の決して凡庸ならざるを示したりき。是より先、左近を恨む者ありて、左近が贓罪を犯したることを密告せしかば、利常は左近を召し、吏をして之を質さしめんと欲せり。然るに左近は自ら罪なきを主張し、敢へて召に應ずるを肯んぜざりしを以て、利常は大に怒り、遂に人を遣はして左近に自刄を命じたりき。左近乃ち使者に對へて曰く、臣固より純潔にして罪なし。故を以て侯の嚴命といへども之に服するを得ず。然りといへども臣にして今君命を拒まば、侯は必ず兵を派して臣を討せん。臣乃ち邀へ戰ひて死せんのみと。是より左近はその邸に屏居して出でず、利常亦棄てゝ顧みることなかりき。既にして利常老を告げ、光高之に代り、こゝに至り初めて國に就きて政務を視しが、左近の事尚懸案の儘なるを知り、その事情を詳かにしたる後、左近に賜ふに茶及び雁を以てし、多年屏居の欝を慰むべきことを告げしめたりしに、左近は侯の恩命に感泣し、その死期の將に近きに在るを知れり。後數日光高又命を左近に傳へしめて曰く、汝曩に家君の命に背きて罪に服せず、家君も亦未だ之を質すに及ばずして國務を余に讓れり。若し今余にして家君の志を繼ぐ能はずんば、不孝の名を得るを如何せんや。汝が罪状の有無輕重は余の未だ深く究めざる所なりといへども、汝唯我が爲に一命を捧げよと。左近命を拜して曰く、主君をして孝道を就さしむるに、我れ豈殘年を惜しむを得んやと。因りて直に澡浴し、衣を更めて割腹し、弟宇右衞門も亦之に倣へり。積年の難問題こゝに於いて解決し、紀綱亦爲に振肅すといふ。この事越登賀三州志にも三壺記にも十八年七月に在りとす。然れども當時光高は在府中に屬す。その初度の入部といふが故に十六年十一月より十七年三月の間にあらざるべからず。絶家録に諸士系圖を引いて十七年二月廿八日切腹とするもの即ち採るべし。