寛永十七年十一月二十八日、是より先光高幕府の閣老酒井讃岐守忠勝を介し、東照大權現の靈を金澤城の北郭に祀らんことを請ひしにこの日之を許さる。後光高登營して將軍家光に謁したりしに、家光曰く、聞く卿大權現をその居城に勸請せんと欲すと。その厚志多とすべく、その崇敬の念亦深しといふべし。思ふに卿は余の女壻にして、余の家と姻戚たるが故に、宜しく大權現の威靈によりて領國を鎭撫すべしと。光高拜謝して退きしが、他日利常も亦書を以て忠勝の盡力を謝せり。 舊冬筑前守(光高)致御目見候刻、權現樣御宮於國本勸請被仰付、御禮申上候之所、忝上意之趣御申聞、誠以難有仕合御座候。彌以御序可然樣被仰上可被下候。將亦拙者儀御取成之由、毎度過分之至存候。爲御禮令啓達候。恐惶謹言。 松平肥前守 正月廿七日(寛永十八年)利常在判 酒井讃岐守樣 人々御中 〔國事雜抄〕 神殿の造營は十九年に初り二十年秋に成る。その設計は幕府の大工木原木工允の監督に成り、金澤の大工清水助九郎等實務に當る。八月二十日東叡山常照院・松壽院及び藩臣村井兵部長朝等神靈に供御して江戸を發し、金澤に着して九月十七口遷宮の式を擧ぐ。後又城外に別當屋敷を營み、常照院の代僧松植院之に居り、更に金澤の天台宗出雲寺等神勤せり。