東照宮の靈廟を城内に置きたる次第は上述の如し。然りといへども、拾纂名言記に據れば、この事たる利常の内心大に快しとする所にあらざりしといへり。初め光高の家を襲ぎし時、利常に謀るに祠殿創建の事を以てしたりしに、利常はたゞ光高の欲するが如くなるべしと答へたりき。是を以て光高は既に老侯の協賛を得たりとなし、之を幕府に稟請するに至りしなり。然るに後利常人に語りて、『筑前若氣の至り、不入事をする。』といひしかば、光高は大に驚き、利常の前日同意せし所なるを詰る。利常乃ち之に諭して曰く、卿は日本一の鉅侯なり。故に卿の爲さんと欲する所は、縱ひ父たりとも余の之に異議を挾み得べきにあらず。况や靈廟の興造は、將軍家の祖先に關する事たるのみならず、卿の室は現將軍の養女たるに於いてをや。唯余は後世に至るも海内の形勢尚今日の如くなるや否やを慮りしのみ。若しこの事にして富山・大聖寺二侯の計畫ならしめば、余は斷じて之を制止すべかりしなり。凡そ事件の重大なること此の如くなるものは、之を余に謀るに先だちて宜しく自ら熟慮するを要すと。微妙陽廣兩公遺事にも亦拾纂名言記と同一の意味を述べ、利常の意見として、『都而國主は國の末代を心に懸仕置をするが肝要也。若し天下改り、家康公何事の儀出來する時は、造替すべく先づ何れへ遷宮致すべき哉。かやうの堂などは城外二三里も脇に營作可然。』といへりとせり。利常は若年の時、豐徳二氏政權推移の状を目睹したりし人。世相の有爲轉變、旦にして夕を測るべからざるに深く鑑みる所ありしなるべし。 寛永十八年は前年の凶歉に續きて、米穀また甚だ登らざりき。これ六七月の交、東北『黒あひ』の風の吹き荒みたるに因る。是を以て農民の食足らず、貢租に未進多かりしかば、士人は擅に釆地の農民を召喚して糺問し、家財牛馬を沒收し、子女を取りて僕婢に使用するに至りしも、固より之を償ふに足らず。是を以て一部は藩より士人に補給せりといへども、他は全く之を得ること能はず、專ら節約によりて一時の急を凌がざるべかりき。士人の生活すら此の如くなりしかば、下民に至りては道途に飢死するもの多く、十九年夏には穀五斗の價銀三十二匁に達すること數日なりき。幸にしてこの年收穫極めて豐饒にして、歳末には五斗の價九匁に下落したるを以て、庶民初めて蘇生の思を爲せりといへり。