光高の薨ぜし年、歳旦の試筆に歌を作りて曰く、『われことし三十文字あまり一文字を歌によまるゝ年の數かな』と。聞く者傳誦してその妙なるを稱せしに、獨り光高の保傳たりし今枝直恒は凶讖なりとなし、窃かに之を憂へたりしに、果してこの事ありき。直恒は光高を陶冶して、忠誠恪勤その比を見ざりしかば、將軍家光も之を評して、加賀少將は天稟の美固より衆と異なりといへども、直恒輔導の力亦大なりといへり。されば直恒は侯の死を痛むこと最も甚だしく、柩を奉じて金澤に歸りたる後之に殉ぜんことを冀へり。時に老侯利常江戸に在りしが、直恒を戒めて曰く、余今齡已に老い、而して嫡孫犬千代尚幼弱なり。是を以て余は卿に託するに、今より後犬千代傅育の重任を以てせんとす。卿若し彼を視ること尚光高に於ける如くならば、余は死すとも瞑すべきなりと。直恒辭すること再三に及びしも、遂に許されざりしを以て命に從へり。 既にして光高の葬儀終るや、淺井源右衞門一政は殉死したりき。一政も亦光高保傅の一人として、晝夜その側を離れざりしものなるが、侯の遠逝を見て悲痛に堪ふる能はずとなし、遂に屠腹するに至りしなり。又小篠善四郎といふものありて、侯の飼禽を管する小吏なりき。善四郎嘗て同僚村雲次郎助と爭ひて之を斬り、自らその罪の死に當るべきを測りしに、光高の裁斷するに及び敢へて之を罰することなかりしかば、善四郎は侯の寛宥を悦び、他日侯百歳の後、若し之に殉ずるの臣あらば、余は必ずその人に倣ぶべしと誓へり。是を以て一政の死を聞くや、善四郎は直に之に次ぎしなり。その他高澤織部・落合勘解由・武部九藏・磯松左内・水野勘兵衞は髮を削りて緇衣を被り、侯の菩提を弔せんが爲巨刹靈佛巡拜の途に上れり。