利常は大名らしき大名たるを以て自任せる人なり。是を以て利常盛に土木を起し、その規模の大にして費す所の多き、人の耳目を聳てしめたりしもの、一は自ら太平の餘樂に陶醉して、軍國の事に念なきを示し、幕府の嫌疑を避けてその社稷を安泰ならしめんとするの政策によるといへども、又一はその大名らしき趣味より出でたるなり。 利常の小松に老せし後、一日近郊に放鷹して途次那谷寺に憩へり。那谷寺は白山所屬の所謂三箇寺の一なるを以て、固より天台宗なりしといへども、この時既に眞言に轉じたるのみならず、伽藍頗る荒敗せしものゝ如くなるが、その境内は老樹欝蒼として薜蘿之に纏ひ、岩石骨立して高さ敷丈に及び、中に洞窟ありて觀世音の像を安置せり。利常、寺僧花王院を召して來歴を問ひ、遂に爲に伽藍を再興し、又石切勘七に命じて、岩壁に階段を刻み、洞窟の前懸崖の上に堂舍を構ふること、稍京師の清水寺に彷佛たるものあらしめき。その遺容今尚見るを得べし。但し元祿二年芭蕉がこの寺に詣でたる時、『萱ぶきの小堂岩の上に造りかけて殊勝の堂なり。』と記するによりて見れば、屋宇は今日の如き柿葺にあらざりしなり。那谷寺の築造は、三壺記等に正保元年利常の同寺に詣でたる後に在りとすれども、現に存する塔婆の露盤に刻したる銘に、寛永十九壬午歳とあれば、利常が小松退老以後直に創めたるものなるべく、文中に新君萬年といへるは、去年家綱の生誕せるを祝したりしなり。されば那谷寺は寺傳に寛永十七年再興すといへるを正しとすべし。 奉創建那谷寺寳塔一宇者。爲容恒河沙菩薩之瑤座救一切繋縁之群萠也。倚頼斯誠心。幕府千秋。新君萬年。及自臣至子孫雲仍。武徳長遠。家運繁榮。各保康寧躋壽域。永蒙安富尊顯之冥助矣。 寛永十九壬午歳九月吉日 大檀越從三位黄門兼肥前守加越能大牧源朝臣利常卿敬白 冶工常國釜屋宮崎彦九郎藤原朝臣吉綱 〔那谷寺塔婆露盤銘〕 那谷寺大悲閣在江沼郡那谷村 那谷寺大悲閣