利常が小松城を修築せしは、その挂冠の年に在りしが、次いで綱紀の治世に至り、正保三年又城内に新殿を興し、九月に至りて之に徙り、慶安元年には葭島に大亭を造り、傍に花園を設けて群芳を栽ゑ、三年には中土居に廣敷を營み、承應元年には葭島に茗室を造り、二年には小松愛宕永福院の拜殿・護摩堂・庫裡を再興し、明暦三年には新たに天滿宮を郊外梯川の邊に起せり。天滿宮は良匠山上善右衞門喜廣の董督する所にして、京都北野天神社の規摸を四分一に縮造し、用米毎年百石を寄進し、連歌を能くする北野の社僧能順を招きて之が別當たらしめき。是に於いて城中城外大に美觀を呈し、その殷盛丹羽氏の治下に在りし時の比にあらざるに至れり。 惣廻り塀下の石垣は、前田彌五作奉行にて、杉野茂平・後藤木工兵衞・桑原彌七是を築く。人足は宮城釆女方より貳百人、小澤九右衞門貳百人、召抱四百人の小人共、毎日々々罷出、御意に應じて岸藤右衞門・市島佐次右衞門・池田長左衞門・山田九郎右衞門召連、追廻し相勤。宮城内藏助は能州より濱松のこびたるを積廻し、葭島にて上る。池上又右衞門は金澤え被遣、大名小名の嫌ひなく露地を見廻り、御意に應ずる木竹石等を宮腰へ廻し、船にて葭島へ積廻す。金澤衆より石・植木・手水鉢・石燈籠、思ひ〱に進上す。分部卜齋・小原庄九郎御前をはなれず、木の立振を目利して、御意を請てぞ植させける。分部伊右衞門は串野より松を見立、數千本葭島へ舟にて積廻す。永原大學・建部九郎兵衞・九里覺右衞門・笠間新助、其外時に依て上木金左衞門等にも御普請の事御頼、御臺所者共を召連、御普請の助成せられける。其外若き小姓衆一人も不殘引繩に取付、九里覺右衞門木やりにまかせ、木を引石を引き、其懸聲天地もひゞく計也。池のさやかけ作りの御座敷の數々、印子の金具、探幽が繪、筆紙の及ぶ所にあらず。漸成就し、金森宗和を初、老中より次第々々に何茂へ御茶被下けり。追付山代へ御湯治被遊、其内江沼郡中の槇の木をとらせられ、葭島の惣廻り塀の内に植させらる。中村彌五作・同小左衞門に葭島を御預、足輕十人小者二十人付置、雪のふせぎ等仰付らる。 〔三壺記〕 ○ 慶安五年の十月改元有て承應元年と云。今度江戸より御歸りの節、御大工伊右衞門を山崎へ被遣、遠州指圖の數寄屋を指圖被仰付、御大工八右衞門を南都へ被遣、利休指圖の數寄屋をうつさせ、直に上方より小松へ歸着す。此二つの數寄屋を九里覺右衞門と山本清三郎に被仰付、其年秋中かけて作らせらる。御横目に笹原大學(篠)を被仰渡、作事毎日見廻り申さるゝ。利常公毎日御出被成、山崎松屋源三郎數寄屋を遠州座敷と申けり。 〔三壺記〕 ○ 明暦三年には小松掛橋の河端に、天滿天神堂を御建立被成。御本尊は、忝くも菅丞相の御自筆に遊ばし置給ひけるを御求め有て、久々御秘藏被成置、山本彌次右衞門を御使にして京都にて表具被仰付。善盡し美盡し御造營被成、成就の時松梅櫻植木共、並神前金燈籠其外の具足共、思ひ〱に御家中より寄進有。柴山内記・生駒三九郎に被仰出、寄進の品々帳面に記し御覽に入奉る。京都北野に於て歌道の宗匠といはれし能觀・能順・能悦とて父子三人被召寄、御移徒に連歌百韵相濟。則能順沙門之被召置、別當に被仰付、掛(梯)橋村にて百石の社領を付、月次の連歌領に三十石被宛行、御家の祖神なれば御子孫榮久の捧札を千岳和尚に被仰付。 〔三壺記〕