利常の改作法施行に熱中したりしは、恰も光高の卒したる後、幕府の命により幼主綱紀を擁して國政を監したる時に當り、光高の後室清泰院は幕府と加賀藩との親善を保持するが爲に、頗る重要なる地位を占めたりき。然るに清泰院は、その所天を喪ひたる憂愁に堪へずやありけん、明暦二年九月廿二日に及びて病甚だ篤く、翌廿三日遂に殂したりき。既にして計報小松城に達せしかば、利常は『扨々是は十方(トハウ)に募るゝ事』なりと嘆じ、後一室に閉居して出でざるに至れり。清泰院の逝去が、加賀藩の前途に關し如何に重大の關係ありと考へられたるかを見るべし。利常せめてはその遺骸を金澤に移さんと欲し、急使を發して之を將軍に請ひしに、家光も亦遠國に葬むるを喜ばずして、既に塋域を小石川の傳通院に定めたりしを以て、その目的を達する能はざりき。 明暦二年の秋、綱利公(綱紀前名)の御母君清泰院樣御違例にて、醫術の法は誠に天下を動し、祈願宿願殘る所なしといへ共、天上の五衰遁難く、御年三十歳にして九月廿三日終に御遠行被成ける。御果報天下に並びなき御事なれ共、十九歳にて恩愛(光高卒去)の御別れに御心を痛ませられ、誠に千行の御悲み、御命も危き程なれ共、忘れ形見の若君御成長の程を、二葉の松の千代かけて見まほしく思召ける御心の中こそ痛はしければ、上下萬民の愁歎筆にも盡し難く、御召仕の女中方、唯生殘りたる命をうらむる外はなし。御遺骸を金棺に納奉り、傳通院へ移奉る。一七日の御法事には、千部の御經讀誦にて大法會を執行有、御諡號を清泰院殿法譽性榮大姊と號し奉る。 〔三壺記〕 ○ 清泰院樣明暦二年九月廿三日御逝去之段、早飛脚を以小松へ言上有之候處、殊之(利常)外御行當之御樣子に而、扨々是は十方に募るゝ事に候由御意に而、暫は何之御意も無之、何ぞ御考被遊候躰に被爲見得候。其後御土藏より唐金之獅子之大香爐・青貝之大卓を被爲乞、中之御居間之御床に被指置、折々御伽羅を被爲燒候。右之御左右有之候而、表之御居間には久々御出不被遊候。其後寒氣を御痛之由に而、御居間御著座候前、次之御座敷に御屏風を御立被成、其内に而御用被爲聞候。 〔藤田安勝筆記微妙公夜話〕