此の年春、利常は會津侯保科正之に女あるを聞き、迎へて綱紀の夫人たらしめんと思へり。正之は二代將軍秀忠の庶子にして、三代將軍家光の異母弟に當り、而して綱紀は家光の養女大姫の出なるが故に、幕府に夤縁せんとする藩の政策としては、このこと實に至妙なりと言はざるべからず。况や正之は居常學を好み道を行ひ、賢君の譽ありしものなるに反し、利常は齡將に古稀に近からんとし、幼孫の補導必ずしも完きを期すべからざりしを以て、藩侯の傅育と藩政の監督とを擧げて婦翁に託せんとしたるは、頗る時宜に適したるものなりしなり。而して正之も亦綱紀の食祿天下に並ぶものなく、殊に天資明敏の人なるを以て、又得難きの佳壻なりとし、直に利常の交渉に應じて、七月廿七日摩須姫を入輿せしめたりき。この日綱紀、出でゝ江戸城の天守臺築造を監したりしが、晡時に至りて邸に還り、次いで合巹の大禮を擧ぐ。時に綱紀は十六歳にして、摩須姫は十歳なり。初め利常、綱紀の爲に婚を保科氏に定むるや、綱紀の傅今枝近義に謂つて曰く、余老病倶に至り、世に在ること甚だ久しからざるべきを思ふ。是を以て綱紀の爲に婦を選び、而して婦翁に託するに綱紀を以てせんと欲す。是を以て姻戚として可なるものを求むるに、將軍には女子なく、三家は余の好む所にあらず。唯保科氏に至りては、その家貴冑より出で、才識亦非凡、仰ぎて綱紀の岳父たらしむるに毫も遺憾あることなし。而して今保科氏既に之を諾す、余復身後を憂ふるを要せざるなり。汝余の意の存する所を忘れず、綱紀に勸めて事大小となく保科氏に諮りて後決行せしめよと。正之亦婚約の成れるを祝し、一日摩須姫とその姉上杉綱勝夫人とを招きて宴を開きしが、正之の室は、摩須姫が庶子にして己所生の上杉夫人に勝るの地位を得んとするを惡み之を害せんとするの意あり。席定るに及び、上杉夫人上座に在り摩須姫之に次ぎしを以て、第一の膳には毒なく、第二の膳には毒あるを置かしめんとせり。時に正之席に就き、摩須姫が鉅侯の室たるべき人なるを以て姊と座を易へしめたりしかば、上杉夫人は毒に中りて暴かに殂したりき。利常之を聞き、摩須姫をしてその母に戒心する所あらしめたりといふ。 萬治元年春と覺申候。肥後守(保科正之)樣御息女樣御所持被成候旨及御聞之由に而、此方より被仰入、御縁組相極申候。其頃御意(利常)被成候は、公方樣には加賀守え可被下御姫樣は無之、御三家はいやに而候。左候へば、此上は肥後守に而候。小身に而も實は台徳院樣の御子に而候故、格別成事に候。肥後守殿にも、加賀守を聟に被仕事は可爲大慶儀に候。我等年寄候故、此上は早婚禮相整候樣に仕度由被仰、彼是特之外御指急被遊候。因茲御前樣被成御座候處は、微妙公御居間・御次共外表向をも御奧の向け御圍込、局迄も出來仕候。 〔藤田安勝筆記微妙公御夜話〕