竹田市三郎忠種は、初諱を忠次といひ、祿三千五百三十石を食む。利常の歸封するや忠種尚江戸に留りて城廓築造の殘務に從ひしが、既にして役を終へて途に上り、信濃に於いて使者の凶報を齎すに逢へり。乃ち急駛して十月十九日四ツ時小松に着し、城に登りて侯の遺骸を拜し、直に日蓮宗本成寺に赴きて自刄す。その偈に『靈恩難謝斷生命。鮮血淋漓濯梵天。四十三年閻浮夢。無明醒盡一時圓。』又歌に『君がいにし死出の山路の道芝もおもひきるにはさはらざりけり。』 古市左近胤重は祿三千六百三十石。亦竹田忠種と共に江戸より還り小松城に登りて侯の遺骸を拜し、次いで中土居の家に入れり。時に富山侯利次の使者二人來り告げて曰く、今加賀侯年弱くして父と祖父とを喪ひ、その悲歎測るべからざるものあらん。卿若し眞に老侯の知遇を思はゞ、宜しく殉死の念を斷つべしと。而して兩使胤重の側去らずしてその行動を監視し、後利次も亦自ら來りて之を諭せり。是を以て胤重心に決する所ありしも、僞りて之を諾し、十月二十九日小松國松寺に入りて屠腹せり。胤重亦偈あり。曰く『不堪君惠赴黄泉。貴命切遮時暫遷。三十四年風一陣。吹開物外雪花天。』 又原三郎左衞門といふ者あり。初め太左衞門に子養せられて、三十人者たりき。三郎左衞門の實父は成敗を命ぜられたる者の子たりしを以て、彼は太左衞門の遺跡を襲ぎて士分たり得ざるかの疑ありしが、利常は三郎左衞門が久しく手廻りとして勤仕せしものなるを以て毫も支障あらずとなし、養父の歿後その祿二百五十石を賜へり。三郎左衞門、笹田勘左衞門に語りていふ、侯の高恩終生忘るべからず、他日事あらば必ず生命を捧げんと。是に至りて侯に殉ぜり。 又堀作兵衞善勝あり。祿百石。嘗て城中に能樂の催ありし時、横目永原大軍輿に乘じて登城し、兒小姓某次ぎて至りしが、兒小姓に從へる若黨は、大學の年尚少きを蔑視し、その輿を排して先行せんとせり。作兵衞之を見て憤り、若黨の面を撲ちて之を懲らしゝかば、若黨は次日作兵衞の家に至り害を加へんとせしも、衆の妨ぐる所となりて遂に果す能はざりき。後作兵衞之を侯に以聞せしに、利常は若黨の非行を咎めて死を賜へり。作兵衞大に喜び、必ず君恩に報ぜんことを期したりしが、侯の薨ずるに及びて之に殉じたりき。享年八十。