品川左門雅直は祿三千石。雅直初め殉死の意なし。然るにその殉死するを以て今侯の爲に有利なることを告ぐるものあり。因りて十二月四日金澤寳圓寺に詣でゝ侯の靈牌を拜し、佛殿の前に屠腹の場を設け、河口八郎左衞門をして介錯せしめき。時に雅直の死する最も他に後れしを以て、世人の彼を議して怯懦と爲さんことを恐れ、門を開き幕を塞げ、衆をして自刄の状を見るを得しめたりといふ。或は曰く、雅直初め利常の遺命に遵ひ、今侯綱紀の左右に侍せんと思ひしが、既にして雅直を自刄せしむるを以て綱紀に利ありとするの報江戸より至りしを以て、遂に命を棄てしなりと。系譜に雅直は高倉大納言の三男なりと記さる。或は曰く、利常兒小姓脇田猪之助を踊子として鍾愛せしが、寛永元年その死するに及び、人を京師に派して容貌の猪之助に似るものを求めしめ、遂に左門を得たるなりと。 微妙公御骨、小松より金澤え被爲入、寳圓寺に被成御座候時分、品川左門小松より金澤え相越、材木町与申所に借宅罷在候。左門追腹前、私儀(藤田安勝)爲暇乞彼宅え罷越候而逢申候處に、思寄能見舞候段大慶に存候旨、禮の挨拶をも申述候而、其上に而左門申候は、左近・市三郎は先達而御供仕候處に、私儀延引成事の由申沙汰も承候。然共此儀は子細有之候。私儀は必御供仕間敷候。加賀守(綱紀)樣え御奉公相勤候樣と兼而堅被仰渡置候故、早速御供不仕候。然者江戸におゐて去方より申候は、此度御供不仕候得ば加賀守樣御爲不宜候間、早速追腹可仕旨申越候。私生殘罷在、加賀守樣御爲に不宜事候ば、早速追腹仕覺悟に候。御自分唯今の御出、別而不淺存候由禮をも申。隨分加賀守樣え御奉公相勤可申候。暇乞は是迄に而候。追付罷越候樣にと、左門及挨拶候故私儀退川仕候。 〔藤田安勝筆記微妙公夜話〕