利常人と爲り聰慧機敏、才略衆に超ゆ。元和鞬櫜の後、利常心を政治に用ひ、最も農制を重んず。故にその創定する所、後世皆之に率由して利便多く、藩吏或は少しく之を改めんとする者ある時は、農民爭ひてその遺法を株守せんと希へり。利常亦能く農民を愛せり。明暦二年十月、利常能美郡今江の民二十口に衣食を給し、越中新川郡船見野に移して開墾に從はしめしが、遣るに臨み利常之を庭上に延き、親しく恩言を與へしかば、民皆感泣して退けり。後彼等の船見野に一聚落を作るに及び、故郷の名に取りて同じく今江村といひ、毎月十二日利常を祀るを例とせり。 利常の事を理むるや、常に甚だしく意を經ざるものゝ如くなりしも、能く情を察し隱微を穿ちて、殆ど遺算なかりき。城東卯辰山の禪刹に、主僧死して弟子二人を遺せるものありしに、賊一人を殺し、一人を疵つけ、財貨を盜み去れりと出訴せり。吏之を檢せしに、訴人の後頭に尺餘の創を受けたり。司獄の長官奧村易英之を利常に告げしめしに、利常はこの訴人こそ即ち賊なることを誨へしを以て、易英は嚴に訊問したりしかば果してその言の如くなりき。吏その明察に驚き之を利常に問ひしに、利常は、何ぞ尺餘の刀痕を得て死に至らざるものあらんや。これ彼の自ら疵つけたるを知る所以なりと言へり。又鎗持四郎兵衞といふ者盜を爲したりとて縳に就きしことあり。利常以爲く、四郎兵衞親に仕へて至孝、盜を爲すの人にあらず。若し彼にして盜まば恐らくは故あらんと。乃ち吏に命じて質さしめしに、その生計貧窮にして母を養ふ能はざるが爲なりき。利常因りてその罪を免さしめ、母に終身一人口を賜へり。