利常の孝悌の情に深かりしも、亦その資性の一面なり。利常が先侯利長の爲に造營したる墓所は、正保三年既に成就したりといへども、その伽藍は未だ經營の緒に就かざりき。利常則ち工匠山上善右衞門に命じ、徑山萬壽寺の企畫に則りて大方丈・小方丈・衆寮・大庫裏・小庫裏・回廊・鐘樓等を具足せしめ、又近藤加左衞門・市橋佐次右衞門をして惣構の塹壘を築かしめ、承應三年より初りて萬治二年に略終れり。初め利常瑞龍寺に寄田三百石を附し、その塔頭の寺庵にも各賜與するところありて、禮遇甚だ厚かりしかば、衆檀遂に之を憚り、寺僧に謀りて曰く、我等卑賤の木主素より君侯の靈牌と同じく安置すべきにあらず、願はくは別に影堂を設くるを得んと。主僧その是非を決する能はず、乃ち利常に訴へしに、利常笑ひて曰く、豈死後の人にして諸侯佛・士庶佛の別あらんやと、遂に允さゞりき。衆檀之を聞きて抃躍し、金穀を瑞龍寺に納むるゝもの益多きに至れり。利常の利長に奉ずること常に敬虔を極め、苟くもその及ばざるものあるを恐るゝが如くなりしもの、蓋し利常が庶弟にして大國を讓られたる恩に感ぜしなりといふ。

江戸に御參勤の時分、高岡瑞龍寺の御幕へ御參詣被遊候。御供仕何茂つくばひ罷在候處に、何やらくど〱と被仰候。殿樣は御經を御讀被成候やと存罷在候へば、次第々々に御聲高に成候而、何と思召しらみあたまの者を御やしなひ、大國御ゆづり被遊候。程近くは毎月も參詣可仕に、所へだて常に不參候と被仰候。御立被成候へば、黒柹の御上下に御涙のかゝりぬれ申候を見申候而、我等も涙落申候由、亡父瀬兵衞咄承候。
〔山本基庸筆記微妙公夜話録〕