利常は利家の第四子にして、母は小幡氏、壽福院と號す。小幡氏は初め利家夫人の侍女たりしが、次いで側室となり、於千世又は東丸殿と呼ばれき。文祿元年秀吉征明の軍を起し、肥前名護屋に行營を定めしとき、利家往きて之に參畫し、小幡氏亦從ひて箕帚を執りしが、二年十一月廿五日金澤に於いて一男兒を擧げしもの即ち侯にして、幼名を猿千代といへり。襁褓にして老臣前田長種に養はれ守山城に在りしが、慶長三年利家の上州草津に赴く途次今石動に宿せし時、始めてこれに謁せり。五年九月利長、丹羽長重と和せしとき往きて質となり、翌月長重は封を失ひたるも、猿千代尚こゝに留りて、長種は小松城代となれり。十一月猿千代兄利長の世嗣として徳川秀忠の佳壻たるべきを約し、六年九月犬千代と改め、諱を利光といひ、同月婚儀を擧ぐ。十年四月後陽成天皇秀忠を征夷大將軍に任ず。利光、利長に從ひ京師に往きて之を賀す。五月十一日前將軍爲に首服を加へ、奏請して從四位下に叙し、侍從に任じ、筑前守を兼ねしめ、又松平氏を冐さしむ。是の年六月二十八日利長致仕せしを以て統を襲ぎ、十九年九月二十三日左近衞權少將に任じ、元和元年閏六月十九日參議に進み、寛永三年八月字を九日從三位權中納言に上る。六年四月廿三日肥前守と稱し、諱を利常と改め、十六年六月二十日致仕して小松城に居り、萬治元年十月十二日六十六歳を以て薨ず。法諡して微妙院一峰充乾といふ。後明治四十二年九月十一日從二位を追贈せらる。 利常夫人は徳川秀忠の第二女にして、子々姫又は禰々姫といひ、後に珠姫といふ。慶長四年三月生まれ、五年十一月婚を定め、六年三歳にして金澤に下り、九月晦日入輿し、元和八年七月三日二十四歳にして殂せり。法諡を天徳院乾雲淳貞といひ、小立野に葬り、寺を建てゝ亦天徳院といへること、皆前に述べたるが如し。寛文十一年改めて利常墳墓の地たる野田山に移葬す。 利常に七男九女あり。その第四女を富姫となす。母は天徳院。元和七年七月二日金澤に生まれ、寛永十九年九月八條宮智忠親王の妃となり、寛文二年八月廿二日歿す。享年四十二。眞照院と諡し、野田山に歸葬す。前田氏の出にして皇族に列したるもの、この外に明治の後有栖川威仁親王妃となりし慶寧の女慰姫あるのみ。 眞照院死去、無是非仕合同意候。氣分重時分も預飛札候へ共、無程死去之左右有之候付、不能返報候。然者死骸去月廿四日京都發足之旨、爰元へも相聞申候。早々御案内快然之至候。恐々謹言。 松淡路守 九月二日(寛文二年)利次在判 松平飛騨守(利明)殿 〔越中上坂氏文書〕