白山嶺上なる神祠を修營するの權利に關して、その山麓の部落牛首・風嵐と尾添との相爭へることは、天文十四年より初りしが、藩政時代に於いても亦明暦・寛文に亙りて十四ヶ年の紛擾を釀し、延きて加賀・福井兩藩の反目となり、遂には領邑の上地を請ひてこの難問題を解決するに至りたりき。 抑白山の澗水北流して二川をなすもの、その一を大日川と稱し、新保・須納谷・丸山・杖・小原の諸村之に添ひ、一を牛首川と稱し、風嵐・牛首・島・下田原・鴇ヶ谷・深瀬・釜谷・五味島・二口・女原の諸色その流域に屬す。而して前者を總稱して西谷といひ、後者は東谷又は牛首谷ともいへり。又別に尾添川といふものありて、尾添・荒谷・瀬戸の各部落之に臨む。是等の地、若し王朝時代の郷名に從ひて分かつときは、西谷・東谷及び目附谷川以西の荒谷・瀬戸兩村は能美郡山上郷にして、獨尾添は石川郡味智郷に屬せりといへども、後凡べて山内庄と汎稱し、白山權現の御庭所たる理由を以て領主を戴くことなかりしが、室町の頃より牛首の土豪加藤藤兵衞といふもの自ら擡頭し、傍近の土民を屈服せしめて恰も統治者たるが如き觀を爲せり。然るに永正中藤兵衞は土冦の爲に戮せられしを以て、その時十一歳なりし藤兵衞の子三郎助は遁れて島村の尾屋孫左衞門に養はれしが、後石川郡福岡の城主結城宗弘に隨從して諱を則直と稱し、大永元年宗弘の援を得、土寇を驅逐して牛首を回復したりき。宗弘の養嗣子を宗俊といふ。天文中牛首・風嵐の二村民が、尾添と白山本宮杣取の權利を爭ひたるは、宗俊の煽動によりしものなるが、幕府が裁斷の結果牛首側の敗訴に歸するや、宗俊は耻ぢて東國に去れり。かくて白山山麓は一時郡境より超越したる別天地なりしが、その後一向一揆の勢力この地方にも瀰漫するに及び、舊時の山内庄は悉く能美郡二百二十四ヶ村中に算せらるゝに至れり。但し天正十一年秀吉の制札に石川郡みちの郷七村といふは尾添を含むものにして、こは舊時の思想によるものと解せらる。