次いで信長の越前を柴田勝家に與ふるや、天正七年八月勝家は柴田三左衞門勝政に命じて、加賀の國境なる谷峠を越えて兵を石川郡吉野に進めしめしに、束谷・西谷及び瀬戸の十六ヶ村は之に服して、貢賦を越前に細るゝを約したりといへども、尾添・荒谷は石川郡吉野・作良・瀬波・市原・木滑・中宮と共に之を肯んぜざりしを以て、その男女を殺傷し民屋に火を放ちたりといへり。一に勝政を佐久間盛政に作るものあるは非なるべし。この後十六ヶ村の地籍を越前大野郡とし、勝政は勝山に在りて之を治し、牛首の加藤藤兵衞則吉は越前軍に與力したる故を以て祿五百石を給せられき。十一年柴田勝家滅び、秀吉は青木紀伊守秀以をして大野城に居らしむるに及び、十六ヶ村は即ちその領となる。秀以は初名を一矩といひ、慶長三年轉じて北庄城に封ぜられしも、大野郡及び山内十六ヶ村を領すること尚舊の如くなりき。五年關ヶ原の戰前に在りては秀以志を西軍に通ぜしも、幾くもなく東軍に歸したりしが、當時秀以は病に罹りしを以て、前田利長の上洛せし時には、秀以の子右衞門佐を誘ひ、大津に至り將軍に謁せしめて社稷の維持を請はんとせしも許されず。一時保科正光を代官としてその遺領を治めしめ、十二月結城秀康の北庄に封ぜらるゝに及び、山内十六ヶ村は秀康の領邑中に入れり。