明暦元年白山嶺上の祠殿大に壞れしが、尾添の邑民等出でゝ興造の材を伐採せり。是に於いて福井領牛首・風嵐の村民、郷長加藤藤兵衞を首魁として之を妨げ、白山は越前の山嶺にして、二邑の民皆その社家たるが故に、禪頂及び温泉の事凡べて彼等の管する所なりとし、尾添の民の擅に之に關するを得ざることを主張せり。尾添の民大に怒り、乃ち之を加賀藩に注進せしに、老臣は状を具して在江戸の老侯利常に報じたりき。蓋しこの時藩主綱紀は纔かに十三歳にして、政務は一に祖父利常の決する所たりしによる。 有時御在(利常)江戸の時分、晩日に御露地へ御出被成御座候處、品川左門白木の状箱を持、御露地へ急ぎ候て相越候處、近く御目掛被成、左門何事にて候哉、國許より早飛脚參候哉と御尋被遊候處に、金澤より早飛脚到來仕候。白山之堂尾添・中宮の者ども修覆仕候處、越前領の島・牛首・風嵐の者共罷出、建立爲仕間敷由申候て追立申に付、是は理不盡成事仕候由申、取て返し候へども、越前領の者人數多く、其上刄もの所持仕懸候に付て、兼て存掛も無之事に候故、重而人數催仕返し可申旨申候て、尾添・中宮へ引取申旨注進仕候に付、必此方より手指仕間敷、追て可申渡旨申付置候旨、年寄中より言上仕旨申上候。則紙面入御覽候處、一遍紙面を御露地よりの道に御覽被遊、御居間之御縁に被掛御腰、早速伊豆守(松平信綱)殿に案内可申遣候間、遠藤數馬・川島平左衞門の内呼びに可遣旨被仰付候處、追付兩人の内罷出候へば、金澤より注進之趣爲申聞爲致合點、金澤より家老共早飛脚を以注進仕候。公方樣御若年に候處、越前守(松平光通)若候に付て加樣の儀出來と存候。加賀守(綱紀)も若手に候へば心掛りに可存候。此等の儀は對御爲候ては不宜候と存候故、兎角あなたより如何樣に仕掛候ても、此方領分の者は必取掛申間敷よし、急度申付遣候。右等御案内申進候由可申入旨被仰付、差急ぎ候而致伺公躰に候。伊豆守殿御返事は、如何申來候哉其砌承不申候處、其後承候へば、御尤成儀に候由伊豆守殿被仰候との取沙汰に候。 〔藤田安勝筆記微妙公夜話〕