利常時に齡既に高くして世故に長けたりしを以て、親藩たる福井侯と相爭ふの不利なるを思ひ、努めてその衝突を避けんと欲したるなり。然るに福井藩に在りては、牛首・風嵐村民の報告により、年壯氣鋭の松平光通は大に激昂したりし如く、その江戸より歸國するや、七月三日老臣本多昌長等に命じ、波々伯部成長を使者たらしめて小松に遣はし、覺書を手交せしめて、加賀藩が祠殿所在の領主に謀らずして擅に興造に從事せんとしたる理由を詰り、且つ光通の未だ事に熟せずして自らその可否を斷ずる能はざるが故に、先づ事情を幕府の寺社奉行に稟し、その指揮を仰ぎたる後修營に着手すると否とを決すべしと抗議せり。當時利常は江戸に在り、而して小松はその菟裘の地にして福井と相距ること近きが故に、光通はこゝに使者を送りたるなり。因りて加賀藩は、同月二十日固より福井藩の提議に異論なきことを回答し、次いで利常は老臣今枝近義を幕府の老中酒井忠勝等に遣はし、詳かに祠殿造營に關する沿革を述べ、又大工太郎兵衞の調書によりて福井領民の亡状を證し、且つ方今將軍幼冲なるを以て、敢へて彼と爭ひて幕府の政務を多端ならしむるを欲せずといへども、他日その成長するに至らば必ず正當の裁斷を仰ぐ所あるべしといへり。 凡そ此等の往復に關する文書は、加賀藩に於いて御直封白山爭論一件と名づけ、關係の地圖數葉と共に一櫃に納め、歴世最も秘藏する所なりしが、明治五年石川縣之を調査し、その中特に必要なるものを蒐録して白山略記と題せり。以下本節に記する所皆これに據る。