利常がその内意を閣老に致したる後、加賀藩に在りては文献を探り、口碑を集め、異日訴訟を提起する場合の準備を爲したりしが、その中尾添村民の祠殿を修營し得べき權利あることを證明するに最も有力なる者は、天文十三年白山禪頂杣取を尾添村に許されたる綸旨、同十四年白山惣長吏澄辰と結城宗俊とが室町幕府に訴訟を提起せる際尾添の勝利を認められたる下知状、慶長十一年及び十九年の綸旨等なりき。然るにこの爭議の未だ解決を告げざる間に、利常は萬治元年を以て薨じ、綱紀政を親らしたりしが、加賀の領民は益熱心にその素志を貫徹せんことを欲したる爲、寛文六年白山本宮の長吏澄意は私かに上洛し、古例に倣ひて嶺上神祠造營の勅許を請ひ得たり。是に於いて綱紀も亦石川郡白山(シラヤマ)・三宮兩村の内百石の地を澄意に與へて長吏職の料に當て、以て之を厚遇したりき。 賀州白山禪頂・同權現造營之事、勸都鄙奉加、勵再興功可爲神妙旨天氣所候也。仍執達如件。 慶長十一年四月十八日頭左中辨(總光)在判 白山七社惣長吏法印御房 〔白山比咩神社文書〕 ○ 賀州白山禪頂・同權現七社惣長吏職之事、如先規澄清可存知。然ば有來神事・祭禮勤行等、造營勸都鄙奉加、勵再興功可爲神妙旨天氣所候也。仍執達如件。 慶長十九年八月廿九日左少辨在判 白山七社惣長吏法印御房 〔白山比咩神社文書〕 ○ 加州白山禪頂・同權現七社惣長吏職之事、可存知專神事祭禮勤行等。造營之事勸都鄙奉加、勵再興之功可爲神妙之旨天氣所候也。仍執達如件。 寛文六年三月朔日右中辨(光雄)在判 白山七社惣長吏法印御房 〔白山麓十八ヶ村由緒扣〕 ○ 爲白山長吏職料、以石川郡白山・三宮兩村之内百石之所令寄附畢。永收納不可有相違状如件。 寛文六丙午年七月廿五日中將菅原綱利(綱紀前名)在判 白山七社惣長吏法印澄意 〔白山麓十八ヶ村由緒扣〕