白山本宮長吏澄意が、本宮造營の爲に都鄙の奉加を得て、再興の功を勵みたらんには神妙たるべしとの綸旨を得たるは、固より天文・慶長の舊例を趁ひたるものにして、今更に勅許せられたる新儀にあらずといへども、慶長以後に在りては時に越前側の造營したる事例なきにあらざりしを以て、新たなる綸旨を仰ぎて効力の復活を圖りたるなり。されば尾添側は今や越前側の反抗し得べき理由あらずとなし、再び社殿造營の爲に木材を山頂に運搬したるに、加藤藤兵衞は復牛首・風嵐の村民を指揮し、悉く之を棄却せしを以て、その顚末を幕府の寺社奉行に出訴するに至れり。この訴訟の經過に關しては、今その詳を知ること能はずといへども、白山麓十八ヶ村由緒扣といふ册子に、『訴答は牛首・風嵐と尾添にて候得共、後立てには越・加兩國の太守樣方聢与御腰掛之論に而、御奉行所にて御決し難被成、』と記したるは、恐らくはその眞相を得たるものなるべく、遂に何等要領を得ること能はざりしなり。 是に於いて藩主綱紀の外舅保科正之は、農民が此の問題に沒頭して、隣藩との利平を害するを憂へ、幕府の勘定奉行岡田豐前守善政と共にその間に奔走周旋し、遂に寛文六年十二月藩臣横山外記氏從を豐前守の許に遣はして、加賀藩領尾添・荒谷二村百七十一石九斗八升の地を幕府の直轄たらしむるが爲に上地せんことを出願せしめしかば、八年八月に至りて幕府はその請を容れ、福井領の十六ヶ村をも共に收めて公領とすることゝせり。これより後此の地方は、白山麓十八ヶ村と稱して郡名を冠せざることゝなる。この時幕府は、加賀藩に與ふるに近江國高島郡海津の一部中村町百七十一石九斗八升の地を以てしてその面目を維持せしめ、福井侯には別に與ふる所あらざりき。これ固より尾添・荒谷は加賀藩の領邑にして、牛首等十六ヶ村は福井藩の預領たるの相違によるといへども、亦綱紀の勢力と保科正之の後援ありしとに依らずんばあらざるなり。