加賀藩の方面より觀察したる明暦白山爭議の顚末は此の如し。而してその主張の是非曲直を公正に判斷するが爲には、福井藩の史料をも探査するの必要あること勿論なりといへども、未だ之を得る能はざるは頗る遺憾とすべし。但し越藩史略・越前國名蹟考の如き成本に於いては、一言も之に觸るゝものあるを見ず。唯僅かに越藩史略一本の頭註に、『往年加州尾添民。利白山資材。竊勸加賀侯葺其祠。牛首民屢諫爲不可。遂與訴訟。公命(光通)本多昌長・狛孝澄・有賀正成等。遣波々伯部九兵衞成長。致書於加賀大夫。具諫其不可。加賀大夫報書相列白。於是盡收平泉寺所上記上之。我臣與加賀臣。屢與相辯。事不能決。今年(寛文六年カ)公朝東都。加賀侯又遣其臣服部左源太。來辯我邸。是時會津侯保科正之爲之和解。而事速難決。曠日彌久。既而大朝下令。收白山于官。其修治亦官爲之。遷宮依古使平泉寺勾當行之。事遂平。』の文あるを見るのみ。 吾人はこゝに白山爭議に關する地理に就きて一二の蛇足を加ふるの必要あるを見る。 尾添川の上流に於ける石川郡と能美郡との境界は、古く見附谷川及び尾添川を以て限れるが故に、尾添は元と石川郡にして荒谷は能美郡なりしが、後に中野川(今中ノ川に作る)及び尾添川の線を以てするに及び、兩邑共に能美郡に屬することゝなりしは言ふまでもなし。但し此の如く郡界の移動せる年代に就きては、越登賀三州志來因概覽の附録に、『尾添・荒谷をも能美郡と爲は、寛文四年以來のこと也。』と記したるが故に、後の學者皆之に疑を挾むものあらずといへども、荒谷は固より能美郡とし、且つ次に引ける寛文六年の覺書に、『いづれの時分より替候哉、今程は白山より流候中野川、能美郡・石川郡之境に而御座候。』といへるによりて見れば、郡境の變更が決して寛文四年に行はれたるにあらず。恐らくは一揆擾亂の頃にあるべし。