次に岡田豐前守が加賀藩に内通せる書簡には、加賀藩が尾添・荒谷二村を上地するに對して、幕府は福井領なる牛首・風嵐二村をも收公するの意あることを言へり。然るに福井領は固より牛首以下十六ヶ村なるを以て、こゝに二村にのみ限りたるは大に加賀藩の怪しむ所となり、次いで藩臣横山外記が豐前守を訪問したる際直に之を話題に上せたりしに、豐前守は越前郷村帳に牛首何ヶ村・風嵐何ヶ村と包括的に記載しあるを記憶すと答へたりき。然れどもこは全く豐前守の誤解にして、越前郷村帳には恐らく東谷と西谷とを分かちて牛首何ヶ村・丸山何ヶ村と記載せられたりしを、この爭議に關して牛首・風嵐の名の最も著しかりしが故に、遂に誤りて牛首何ヶ村・風嵐何ヶ村なりと思惟するに至りしなるべく、幕吏がこの重大事件を解決するに當りて深くその地理をすら研究することなかりし辻濶を見るべし。後果して豐前守はその誤謬なることを發見せしを以て、牛首十一ヶ村・丸山五ヶ村を歿收するなりと訂正し、且つ加賀藩より提出せる地圖に福井預領十七ヶ村を載すといへども、そは十六ヶ村ならざるべからずと難詰するが如き語氣を洩らせり。思ふに加賀藩の圖は島村を東島・西島に分かちたるを以て村數の増加を來しゝものなるべく、事實上十七ヶ村といふも十六ヶ村といふも同一なりしなるべし。 覺 一、加州白山之麓尾添村之儀、越前勝山領牛首村・風嵐村と、從故杣(前カ)取諍論之儀就有之、手前領分尾添村百姓等隨分申付候へども、猪・猿同事之やつばら共にて、今以杣取之儀心底に指揮有之躰に御座候間、尾添村並近所荒谷村、此兩村は公儀へ差上申度存候事。 一、往古は白山禪頂せんぢや(千蛇)が池より、見月(附)谷之前へ流出候川を切、加州能美郡・石川郡境之由之所に、いづれの時分より替候哉、今程は白山より流候中野川、能美郡・石川郡之境に而御座候事。 一、尾添村之儀、往古は石川郡由候之處、唯今は能美郡に而候。荒谷村は勿論能美郡之事。 一、中宮村之儀は石川郡に而、尾添村・荒谷村とは郡違申候。勿論中宮村白山廿一社之内に而候得ども、近所さら(佐羅)村・金劔など其外領國之内に廿一社之内之社多御座候。中宮村一ヶ所上申候而も詮なき儀と存候。其上中宮村上候得者、石川郡之山境目紛敷候間、右之通中野川を境、尾添・荒谷兩村差上、中宮村は上申間敷候事。 一、尾添村に最前者銀山就有之、小屋懸躰之町御座候。唯今銀山致退轉、町屋も無之候。尾添村・荒谷村高辻別紙書付進之候事。以上。 十二月八日(寛文六年) 〔加州白山爭論一件〕 ○