その後嶺上三社中御前・大汝の神祠大破し、山麓の村民皆その修營を代官杉田九郎兵衞に請ひたりしを以て、延寳九年(天和元)四月代官は胥吏を派して實状を視察せしめ、その工事入札を美濃筋及び尾添側・牛首風嵐側の農民に命ぜり。この入札は美濃筋の手に落ちしが、牛首風嵐側は更に下請して建築に從事し、六月十三日より十八日に至る間遷宮の典を擧げ、高野山隨心院の使僧二人及び加賀の僧十二人は尾添の民と共に大汝に、比叡山喜見院使僧二人及び越前の僧十二人は牛首風嵐の民と共に御前に奉仕したりき。然るに七月二十日大風によりて、社堂顚覆せしかば、九月代官手代の出張を請ひ、尾添・牛首・風嵐の村吏等假に修繕する所ありしも、その後破損甚だしく、幕府の代官亦交迭すること數次にして、本建築の許可を得ること能はず。因りて元祿十年九月尾添の庄屋次郎兵衞外九名連署して、御前及び大汝の神祠を造營せられんことを稟請せしかば、半牛・風嵐側も亦默視する能はずとなし、惣神主と稱する利右衞門外七名も同一の出願を爲して、之が遷宮の役務を奉仕せんことを求めたるに、こゝに爭議再燃して、翌十一年三月尾添側は牛首・風嵐側を被告とし、從來尾添村民は加賀方面の登山者に對して任意の初穗錢を領收したるが、近時牛首・風嵐兩村民が嶺上に人を派し、初穗錢の外に一人貳百文を強請するのみならず、その錢なき者には衣服を掠奪するの暴行をすら敢へてするを以て、漸く登山者の數を減じて尾添村民の生活を脅威するに至りたりとの事由を述べ、且つ昨年尾添側が神殿造營を請ひたる際、直に牛首・風嵐も同一の願書を提出して尾添の目的を達せざらしめんとしたるは、實に押妨の甚だしきものなりと主張したる訴状を幕府の寺社奉行に上れり。寺社奉行乃ち之を受理し、七月九日を以て口頭辯論の日と定め、被告の出頭を促したりき。但しこの訴状中に、初め綱紀の母清泰院が白山建立の意ありて材木を登せたりとするものは虚僞なり。若し眞に清泰院の立願なりしならんには、將軍の養女たる威權を以て、何ぞ初より越前側に對して逡巡せんや。直に所期の目的を貫徹すべかりしなり。