この訴訟は、如何の徑路を取りて進捗せしやを詳かにすること能はずといへども、元祿十二年八月廿七日阿部豐後守邸に於いて、延寳九年の近例に隨ひ、嶺上神祠の遷宮に關しては、二社を天台方、一社を眞言方にて勤むべき裁許を與へたりき。二社とは即ち御前岳と別山とにして、天台方たる比叡山・越前平泉寺及び牛首・風嵐村民の奉仕する所とし、一社とは即ち大汝岳にして、眞言方たる高野山及び尾添村民の奉仕する所たらしめたるなり。蓋し白山嶺上神祠の奉仕權に關する爭議は、表面より見れば牛首・風嵐側と尾添側との反目なるも、實は越前馬場平泉寺と加賀馬場白山寺との互に勢力を張らんとしたるに起り、而して二寺は共に延暦寺末たりしなり。然るに江戸時代に入りて盛に相爭ふに至りたる結果、平泉寺は福井侯松平氏の盡力によりて、その宗家徳川氏の祈願新たる東叡山寛永寺の庇保を受け、以て有利の地位を占むるに至りしかば、尾添側は之に封抗する能はず、乃ち前田氏が高野山天徳院の大檀那たる關係によりて、金剛峰寺の勢力に倚頼するに至りたるが如く、隨つて幕吏も亦双方の面目を傷つけざらんことを欲し、前に言へるが如き判決を與へしなりと思はる。