先に述べたるが如く、平泉寺は享保中御前及び別山方面に於ける牛首・風嵐二村民の勢力を驅逐したりしが、白山を對象として生活の資を得るものは、啻り彼の二村民のみに止らず。是を以て平泉寺は、更に元文元年越前大野郡石徹白の社家及び美濃郡上郡長瀧寺の衆徒との間に紛議を釀し、次いで加賀方面の尾添村民とも衝突を生ずるに至れり。就中尾添村民は、元祿十二年の裁許により、十五年大汝遷宮の役務を奉仕したりしが故に、大汝岳が尾添村民の支配たることは確乎不拔の事實なりと信じたりしなり。然るに近時幕府によりて御前岳及び別山の管理權を保護せられたる平泉寺は、更に進んで三峰悉くその掌中に歸せしめんことを欲したるが如く、元文三年先づ大汝の神祠を營繕せしに、尾添村民は大に怒りて之を撤し、改めて自ら修補を加へたりき。平泉寺乃ち尾添村民の暴擧を摘發し、且つ彼等が毎に加賀口の登山者を嚮導して、嶺上三社に對する賽錢を己の有とするを非難し、又之と同時に、石徹白の社家大和が京都等に於いてその神寳を衆庶に拜觀せしめたる時、越之白山大權現開帳と記したる高札を掲げたるは、平泉寺が奉仕する白山神の開帳なりと誤認せしむるの恐あるのみならず、別山及び別山室を大和の管轄なるが如く主張し、別山の梵字ある札寳印を發行し、或は別山室に於いて登山者の白衣に梵字を押捺するは、白山の別當として朱印領を有する平泉寺の權利を侵害するものなるを以て、速かに之を禁止せられんことを幕府に要求せり。因りて評定所は被告側を喚問したりしに、尾添村民は延寳・元祿の例を引きて、大汝の神祠がその支配たるべき理由を反覆せり。但し延寳に於ける大汝の修營は、尾添側も平泉寺も共に關係せしところにあらざりしなり。而して石徹白の社家に在りては、亦素より別山の神主にして、その札寳印を發行し梵字を白衣に押捺することは、啻り彼等が之を爲すのみならず、美濃長瀧寺に屬する阿名院が御前の札寳印、阿名院地中持善坊が大汝の札寳印を發行し、その梵字を押捺すると同例なることを陳辯せり。是に於いて評定所は、訴外阿名院及び持善坊をも喚問し、寛保三年六月に至りて結審することを得、之によりて尾添村民並に石徹白の社家が從來の行爲を共に理由なきものなりと斷じ、尾添村民は加賀口の參詣人を案内して加賀室に宿泊せしめ、石徹白の社家は美濃口の登山者を導きて別山室に參籠せしむることを得るも、三社開帳と賽錢の收人は全く平泉寺に屬する特權なることを認め、石徹白の社家及び阿名院・持善坊等が梵字を押捺して志納金を徴することを停止し、又彼等が私に札寳印を製するの慣習ありしを廢し、自今平泉寺の發行する所を請ひ得て之を頒布すべく、嶺上三社及び五ヶ所の室の修營も亦平泉寺以外これに干與するを得ざる旨の裁許状を下附せり。是に至りて尾添の村民は、先の牛首・風嵐と共に白山に關する利益を喪失し、平泉寺獨勢威を振ひたりき。かくの如き状態は延きて明治に及びしが、五年嶺上神祠及び山麓の十八ヶ村の凡べて加賀國能美郡の所管たるべき指令を得、六年その神祠は白山比咩神社に屬することゝなれり。