加賀藩第五世の主は即ち前田綱紀にして、治世前後七十九年の久しきに亙り、將軍家光の末期に始り、家綱・綱吉・家宣・家繼を經て吉宗の初年に及び、獨天下昌平の餘慶に浴せしのみならず、亦自ら政を勵みて藩治の實蹟を擧げ、外は則ち侯伯の典型となり、内は則ち中興の英主を以て稱せられき。 綱紀は初め父光高の後を享け、祖父利常の監國によりて政を執りしが、萬治元年利常薨じたるを以て喪に服し、次いでその期を終るに及び、十一月二十一日登營して將軍家綱に謁し、曩に屢懇問を賜ひたるを謝せり。是に於いて、利常の養老封能美・新川二郡の地二十二萬二千七百六十石を綱紀に加賜して、提封凡べて百二萬五千二十石を領せしめ、また老臣本多安房守政長等三人を將軍の面前に延き、綱紀の齡尚弱きを以て能く輔佐の任を盡くすべきを告げらる。綱紀時に年十六なりしを以てなり。是より先會津侯保科正之も、亦直に利常の薨後を受けて綱紀の後見たるべきを命ぜられしかば、正之は寛文九年その退老するに至るまで、心を傾けて之を誘掖薫陶せり。