寛文元年六月二十九日老中阿部忠秋、本郷の藩邸に就きて綱紀に暇を賜ふの命を傳へ、綱紀は七月八日江戸を發し、下街道を經て十九日金澤に入れり。この年綱紀齡十九にして初めて入部したるものにして、士民歡喜して之を迎へたりき。綱紀乃ち二十五日より諸臣を引見し、八月十八・十九兩日には宴を張り能樂を催し、諸臣に白銀・時服を賜ひ、又貧窮を賑恤し、次いで九月朔日以降諸老臣の邸に臨みて盛饗を受く。初め綱紀の入城するや、本多政長之に謁して態度稍恭謹の状を缺きしかば、綱紀は横山忠次に命じて嚴に戒飭せしめんと欲したりしが、忠次はその甚だしく急に失するを諫めたりしを以て止めり。綱紀の意、蓋し老臣の巨擘たるものに一針を加へ、他をして自ら警むる所あらしめんと欲したりしなるべし。 松雲公御國入之砌(綱紀)、本多安房守(政長)御禮申上樣、殊之外頭高にて大へいに見え候。横山左衞門(忠次)を召し御意には、安房守沙汰の限り也。手前え不禮緩怠の體、我等が威光を奪と思召候。急度申付候へと御意有之候へば、左衞門御請に、御尤至極に奉存候。乍然此儀は今三年御待可被下候段申上候。連々安房守え申聞、後には事之外爲體宜敷罷成申候よしに候。 〔集古雜話〕