既にして九月十八日綱紀は小松城に往けり。小松は祖父利常の菟裘を營みし所にして、綱紀は利常の鞠育を受けたる恩義殊に深きものありしが故に、封國に就くの初先づその遺蹤を見んと欲したるなり。綱紀小松に至りし翌日、直に耆宿の臣九里正長を隨へて郊外淺井畷に赴き、二世利長の軍が丹羽氏と苦鬪したる戰蹟を探り、詳かに當時の事情を聞き、爾後金澤に在ること僅かに二旬にして、十月八日再び參覲の途に就き、廿五日を以て江戸の藩邸に入れり。 この行、綱紀は初めて領國の風物を見、民情を察し、施政上幾多の畫策を胸中に描く所ありしなるべく、而してその實行に移されたるものゝ一に愛本橋架設の事あり。綱紀の越中を往返せしとき最もその注意を惹きたりしは、その地に大河多く、行旅の艱苦甚だしきことなりしは言ふまでもなし。されば綱紀は最難所たる黒部川に橋を架して、徒渉の煩を除かんと欲せしに、老臣等之を喜ばずして曰く、黒部の水は所謂四十八ヶ瀬を成すものにして、激流奔湍渡舟の便を有せず、我が藩無双の要害として憑むべきものなり。然るに今一朝にしてこの瞼を除くは、恐らくは防備を完からしむる所以にあらざるべし。况やその工事至難にして、費す所の財亦尠からざるに於いてをや。舊態のまゝたらしめて可なりと。綱紀之を排して曰く、卿等はその一を知りてその二を知らざるものなり。夫れ藩國の強弱と安危とは、一に施政の宜しきを得ると否とに因る。苟も諸侯にして士民を駕御するの途を失はゞ、山河の險も何の憑む所ならんや。余既にこの國に政を施して行旅の困難を顧みざるが如きことあらば、上は朝廷と幕府との負荷に報い、下は黔首を愛撫する所以にあらざるなりと。老臣等理に服して議終に定り、新たに黒部川の上流を選びて飛橋を架す。その長さ三十三間にして一の橋脚を有せず、名づけて愛本橋と號す。笹井正房その工を監し、寛文二年に成れり。 綱紀は、智仁勇の三才をかねたりといふべきほどの人にてありければ、國の政治もすぐれたりし事ども多く、黒部川四十八ヶ瀬といふは北國にかくれなき難所にて、わたり瀬急流なるゆゑ、やゝもすればおぼれ死するものありしに、綱紀此山そひにあらたに道をひらき、橋をわたして諸人のゆきゝをやすくしたり。此事を議せしはじめ家の老どもいへるには、國を守る要害の地をうしなひなんといひしを、綱紀、國の安危は政事の得失にこそあれ、山海の險難によるべきにあらずとて、ながく覆溺の憂を除れたりとぞ。 〔續藩翰譜〕