この時、伊豫國西條の城主一柳直興罪ありしかば、幕府は寛文五年七月廿九日その封を除き、加賀藩に託して金澤に禁錮せしめたりき。直興は通稱を監物といひ、祿二萬五千石を食めり。直興寛文元年に女院御所造營の助役を命ぜられしを以て、移徙の儀行はるゝに先だちて幕府より上洛の爲に暇を與へられしが、彼は潛かに領國に還りて之に會するの機を失したるのみならず、今年參覲の時にも亦病を以て期に後れたりしに拘らず、速かにその許可を幕府に請ふことなく、出府の後又病状を閣老に告げず。その他常に臣屬と領民とを苦しめ、内寵多く淫行盛なりとの風聞ありしを以てなり。綱紀幕府の命を得て、藩臣淺井政右等を評定所に派し、直興を幕吏より受けしめき。直興時に四十一歳、擧止度を失はず、大に藩臣をしてその平靜常に異ならざるを嘆稱せしめたりといふ。十月直興を金澤に移すや、士卒二百數十人をして護送警備の任に當らしめ、郊外廣岡村に居を構へて居らしむ。その地方百間、廻らすに塹濠を以てし、複塀を設けて忍返を附し、門鑰を嚴にせり。當時綱紀は努めて之を優遇し、西條の從臣數人を左右に侍せしめ、直興に帶刀を許し、百人扶持を給し、交番警衞の事には定番馬廻の士を用ひ、物資供給等の事は町奉行をして當らしめ、節中元に會する時は特に銀五枚を贈り、暑季には明石縮十端、寒中には羽二重十疋を以てし、毫も罪囚を待つものゝ如くならざりき。既にして綱紀、屢幕府の老中に囑して直興の罪を赦されんことを請ひしが、事容易に行はれざりしを以て、更に直興の同族山城守直治をして輪王寺宮と閣老とに哀訴せしめ、又自ら牧野備後守成貞を介して將軍綱吉に乞ふ所ありしかば、二十二年を經で貞享三年六月二十六日遂にその譴を解かるゝことを得たり。綱紀大に喜び、翌日直に使を國に下して直興に告げしめ、太刀馬代金五枚・軍帷子十襲を贈り、その從臣三人にも亦各單帷子五襲を與へて之を祝せり。綱吉の直興を宥すや白ら筆を操り、『領國中住居及召仕人の事勝手次第』たるべきことを記して之を老中に授けたりき。是に於いて綱紀は閣老に謀り、直興をして能登の幕府代官所及び大聖寺・富山兩支藩の地を除く外、加賀藩内隨意の所に在るを得しめ、又その從者は男女共に之を使役するを得べく、若し子女の生まるゝことあるも敢へて問ふ所なかるべしとせり。直興大に悦び、後金澤城に登りて綱紀に謁せしが、時に年既に耳順を超え、眼疾により明を失ひて全く見ること能はざりき。而も直興は尚能く長壽を保ち、元祿十五年八月三日を以て殘せしかば、侯は禮を厚くして城下高巖寺に葬り、その遺臣數人を擧げて藩に祿仕せしめき。 一柳監物殿御家へ御預の時分、曾てわるびれたる樣子無之、見事成仁體に候。評定所へ御越の時着用の上下はなし不被申、小用などに被相越候時分は、こなた樣より勤番の面々へ、小用に參り度候、乍御大儀あれまで御出可被成候などゝ御申候由。用達所へ被參候時迄上下をとり、又もとのごとく着いたされ候由。前田對馬守(孝行)など申候は、監物殿の儀とかう不被申仕形に候。終に御預に成被申覺無之儀に候處、其仕形御預人に相應したる儀感じ入申事と申候。 〔中村典膳筆記松雲公夜話〕 ○ 數年立御宥免之儀戸田山城守(忠昌)殿へ被(綱紀)仰達候處、あの不屆者無藥袋ものに候などゝ御申候て、中々御口出も難被遊躰に御座候。其後牧野備後守(成貞)殿え被仰入候得者、御聞屆候而常憲院(綱吉)樣え被申上、金澤にてひろう成、召仕の女中など被差置候樣に成申候。其時分あきじひの如くにて、目曾て見え不申候。御免以後一度登城被致候。里見七左衞門町奉行の時分相添有之。御料理等の節も、唯今加賀守殿ヶ樣に被成候、御挨拶に被罷出候などゝ申候。御引出物などの時分は、七左衞門かさを取候而相渡、監物(直興)殿かさを御出し候。目は見え不申候得共、諸事特の外見事成事に候。中々へりめも付不申、常人にては無之候出御感じ被遊候。 〔中村典膳筆記松雲公夜話〕