綱紀寛文十一年四月七日を以て江戸に抵りしが、この夏當世の名儒を本郷邸に招きて宴を張り、一代の盛事と稱せられき。抑本郷邸は、大阪の役後將軍秀忠がこの地を利常に與へたるに始り、寛永三年建築の工に從ひ、成るに及びて利常の母壽福院を居らしめしことあり。次いで六年四月家光・秀忠各この邸に臨み、九年十二月には辰口の本邸災に罹りしを以て、利常は暫く之に居れり。十七年家光再び來りて之に臨み、綱紀の時明暦元年大修築を施して益壯麗を加へ、後又園池を修め、綱紀自ら育徳園と稱したりしものにして、規摸の廣大と風致の典雅とを以て知られたりき。この日讌に與りしものは、林鵞峰・林鳳岡・林春東・人見友元・野間三竹・野間允廸・平巖仙桂・澤田宗堅・五十川剛伯にして、前の六人は幕儒、後の三人は藩儒なり。皆當代學界の錚佼にして、或は園中の勝景を吟じ、或は綱紀の詩韻を賡げり。 農制に於ける所謂改作法は、先に明暦二年を以て一段落を告げたりしが、當時加賀の一部に亙りし富山藩領と、能登に於いて老臣長氏が織田信長の時より有せる釆地とには、未だ之を施行するに至らざりき。然るに綱紀の治を施くに及び、萬治三年從前富山侯の領邑たりし能美郡二萬石及び新川郡一萬六千石を收めて、本藩領たりし富山近郷をその易地としで與へたりしかば、綱紀は又その新たに併せたる地に改作法を施行し得たるも、長氏の釆地鹿島半郡五十九ヶ村はその由來最も古くして、輕忽に著手する能はざる事情あり。是を以て、綱紀は機を得て之を整理せんと欲したりしが、偶寛文十一年長連頼歿したるを以てかの地に密集せる領邑三萬三千右を除き、嫡孫尚連に同額の散在地を加越能三ヶ國に於いて與へ、後その上地に改作法を施行せり。但し長氏の得たる新釆地は、既に改作法之實施せられたる所なるが故に、その實收入は舊領に比して差違なきこと能はざりき。是を以て綱紀は、別に尚連の弟連房に千石の地を與へて不利を補ひ、尋いで七日市侯前田利豐の女恭姫を綱紀の義子となし、貞享元年之を尚連に配して門閥優遇の意を顯せり。