藩士が家政を鹽梅するに收支の均衡を失ひ、藩の匡救を要するに至りしことの夙く光高の時に濫觴したるは前に言へるが如く、綱紀の世に及びても慶安三年と寛文二年とに之を行ひしことあり。貸銀と稱するもの即ち是にして、藩士より言ふときは借銀なり。綱紀又寛文四年に於いて第三次の借銀を許したりしが、その元本償却の方法は、食祿の一部を割きたる除知(ヨケチ)を以て之に當てしめ、一割の利子を徴し、彼等が債務を負ふ間は特に生活の費用を緊縮し、また證人を設けて契約實行の責に任ぜしむる等の制を定めたりき。然りといへども此の如き救濟方法は單に一時を糊塗するに止り、到底根本より彼等の生活を改善せしむること能はりざしを以て、延寳二年正月在藩の老臣等復藩士の窮乏せる状を具申するに至れり。因りて綱紀は二月江戸より書を與へて、姑息の助力が何等の好果を生ぜざるべきを言ひ、その採るべき手段は第一に藩士の所存を改むるにあることを諭したりき。 自去暮至于當春、家中之者共、手前行詰令迷惑者數多有之由、前月(延寳二年正月)十日之紙面趣承知、不珍事候。諸士中只今之覺悟にては、たとひ幾く助成有之候共、また〱行詰可及難儀事、年を不可過候。とかく歴々之者を初諸士之中之所存を可改仕置之外者無之事候。其上之憐愍者實之助成たるべく候間、其心得可有之。 〔松雲公遺簡雜纂〕 ○ 御家中の面々段々勝手惡敷成申事も、何も二代三代も相勤、御扶持を被放或は免を御借りなどゝ申儀無之候故、何れもあまへ候てヶ樣に成申候。折々きびしく不被仰付候ては何とも成不申候。結構計にては惣樣縮り不申候。他國にては中々ヶ樣にては無之、不存寄扶持など被放、又は所替等有之候故、人々勝手方其外萬端相つゝしみ、たくはへも所持、武藝なども相嗜、常々心懸申候。御家中の者共の儀は、いづれもあまへ、もたれ懸り候樣に有之段、不忠至極の事に候由度々御意(綱紀)被成候。 〔中村典膳筆記松雲公夜話〕