綱紀の訓諭する所は此の如くなりしも、之によりて諸士の面目を改むることは到底一朝一夕に望み得べきにあらず。而も彼等の困窮は急速の救濟を要し、決して默視するに忍びざるものありしを以て、諸士をしてその負債を申告せしめしに、總額二萬貫目に達し、藩がその救濟の爲に貸附し得べき資銀は、僅かに半額に達するに過ぎざりしかば、老臣等は皆その實現を以て容易の業にあらずとせり。是に於いて綱紀は老臣と共に、その得失に關して論難考究すること二年の久しきに亙り、延寳四年九月廿七日先づ前の寛文四年の貸銀に對する利子を五分に減じ、次いで十二月廿七日新たに貸銀を許すの令を發し、翌年正月二日より諸士をして之を請はしめき。尋いで三月十九日別所三平・岡田隼人の二人を借銀奉行たらしめてその事務を鞅掌せしめ、又算用場奉行に命じて、内帑の資を賃銀の一部に當て、その足らざる所は封内及び京師に於いて借入れしめ、後之を諸士に貸與し、返濟の期限を十五ヶ年と定め、元來賃銀を行ふの趣旨が專ら諸士の困厄を救ふにありしを以て、利子を徴せざることゝせり。世に巳年の大借銀と稱するもの即ち是にして、上下その恩徳の偉大なるを感謝せり。但し負債の額大に過ぎ、士人たる地位を辱しむと認められたるものにありては、嚴に之を罰して敢へて狎眤を許さゞるべきを示せり。