貞享元年正月綱紀、前名綱利を改む。綱利の名は、承應三年正月十二日營中に首服するに當りて、將軍の偏諱を賜ひ、藩祖以後襲用したる利字を加へたるものたりといへども、是より先承應二年十二月十一日細川越中寺の同じく綱利と稱したるありしのみならず、この成語が古典に根據を有せざるが故に侯の意に滿たざりしが如く、則ち林鳳岡に命じて別に選定せしむる所ありき。鳳岡因りて數種を擇びて之を上つりしが、綱紀・綱倫の二者を採り、更に旨を朱舜水に傳へて可否を諮ひしに、舜水は何れも不可なきを應へたりしを以て、侯は自ら綱紀と稱したるなりといへり。 元祿四年二月綱紀自ら大願十事を定めて、將來の施設を豫定せり。その第一に八幡宮造營の事といふは、武神を崇めんとするなり。第二に菅廟造營の事といふは、遠祖を祀らんとするなり。第三に御宮・御佛殿造替の事といふは、城内に在る東照宮と之に附屬する城外なる徳川氏祖廟の規模を壯大ならしめんとするなり。第四に如來寺に佛殿を造營せんとするは、綱紀の母清泰院の菩提所たりしに因るべく、第五に新御佛殿造營といふは、第三世利常の廟所なるが如し。而して第六寳圓寺造營の事は藩祖利家、第七瑞龍寺修造の事は第二世利長、第八天徳寺修造の事は第四世光高の廟所に係り、その中天徳院を指して天徳寺と記したるは、天徳院が利常夫人の爲に造られたる廟所なるも、夫人の墳墓は先に寛文十一年野田山に移されたるを以て、利常の靈牌と共に新御佛殿に合祀し、同時に天徳院はこゝに埋葬せられたる光高のみの菩提所たらしめて、天徳寺と改稱せんとする計畫にはあらざりしかと思はる。第九先聖殿並びに學校造營の事は、當時幕府の興造しつゝありし湯島の聖堂に倣はんとしたるものとし、第十金澤別舘造營といへるは、蓮池第の擴築を欲せしならんかと考へらる。是等の中、天徳院の改造せられし外は一も實行せられたるを見ずといへども、朱舜水の筆に成れりといふ孔子の神位が現に存するによりて見れば、先聖殿の事も亦幾分の歩を進めたりしものゝ如く、而して綱紀の目標とする所の主として尊祖と興學とに在りしを察し得べきなり。 一、大願十事 謹考 第一、八幡宮造營事 第二、菅廟造營事 第三、御宮御佛殿造替事 第四、於如來寺御佛殿造營事 第五、新御佛殿造營事 第六、寳圓寺造營事 第七、瑞龍寺修造事 第八、天徳寺修造事 第九、先聖殿並學校造營事 第十、金澤別舘經營事 右十事之大願、往年所記置之、今復改書之、自勵其志。 于時元祿萬年之第四歳次辛未仲春十有九日 從四位上行左近衞權中將兼加賀守菅原綱紀拜謹記 〔前田家文書〕 朱舜水書孔子神位金澤市尾山神社藏 朱舜水書孔子神位